・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかし万一将来の実験や観測の結果が、彼の現在の理論に多少でも不利なような事があったとしても、彼の物理学者としてのえらさにはそのために少しの疵もつかないだろうという事は、彼の仕事の筋道を一通りでも見て通った人の等しく承認しなければならない事で・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓いてゆくべき欲求も苦悶もなさすぎるようにさえ感ぜられた。兄の話では、今の仕事が大望のある青年としてはそう有望のものではけっしてないのだとのことであった。で、私がこのごろ二十五六年ぶりで・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・乍チニシテ島原ノ妓楼廃止セラレテ那ノ輩這ノ地ニ転ジ、新古互ニ其ノ栄誉ヲ競フニオヨンデ、好声一時ニ騰々タルコトヲ得タリ。現在大楼ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼曰ク甲子楼曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們最モ群・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ナチュラリズムは、材料の取扱い方が正直で、また現在の事実を発揮さすることに勉むるから、人の精神を現在に結合さする、例えば人間を始めから不完全な物と見て人の欠点を評したるものである。ローマンチシズムは、己以上の偉大なるものを材料として取扱うか・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・日本の詩人で、多少でもニイチェの影響を受けたと思はれる人は、過去にも現在にも一人も居ない。況んや小説家の中にも皆無である。ただ一人、僕の知る範囲で芥川龍之介が居た。彼は自殺の一二年前から、その作品の風貌を全く変へたが、これがニイチェの影響で・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・私は、光線は誰に属すべきものかという問題の方が、監獄にあっては、現在でも適切な命題と考える。 小さな葉、可愛らしい花、それは朝日を一面に受けて輝きわたっているではないか。 総べてのものは、よりよく生きようとする。ブルジョア、プロレタ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲の室で二上り新内を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その原因は他なし、この改進者流の人々が、おのおのその地位におりて心情の偏重を制すること能わず、些々たる地位の利害に眼をおおわれて事物の判断を誤り、現在の得失に終身の力を用いて、永遠重大の喜憂をかえりみざるによりて然るのみ。 内閣にしばし・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫