・・・向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになっていた処もあった。樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んでおったチェルシーなのである。 カーライルはおらぬ。演説者も死ん・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 暗い、暑い、息詰る、臭い、ムズムズする、悪ガスと、黴菌に充ちた、水夫室だった。 病人は、彼のベッドから転げ落ちた。 彼は「酔っ払って」いた。 彼の腹の中では、百パーセントのアルコールよりも、「ききめ」のある、コレラ菌が暴れ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・すこし砂糖をまぜる。ガスにかける。火をつける。ドンコたちはここまでされても落ちつきはらっている。まだなんとかなると思っているのである。しかし、火がついて、下からそろそろ熱くなって来ると、ようやく、これは一大事というように騒ぎはじめるのである・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・これを譬えば、毒物を以て直にこれを口に喰らわしめずして、その毒を瓦斯に製し空気に混じて吸入せしむるが如し。これを無情といわざるを得んや。鬼蛇の名称差支なかるべし。 また一種の主人あり。これを公務家と名づく。甚だしき遊蕩の沙汰は聞かれざれ・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・も家は提灯に隠れて居る。瓦斯燈もあって、電気燈もあって、鉄道馬車の灯は赤と緑とがあって、提灯は両側に千も万もあって、その上から月が照って居るという景色だ。実に奇麗で実に愉快だ。自分はこの時五つか六つの子供に返りたいような心持がした。そして母・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・みんなは町の祭りのときのガスのようなにおいの、むっとするねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に着きました。すっかり夏のような立派な雲の峰が東でむくむく盛りあがり、さいかちの木は青く光って見えました。 みんな急いで着物をぬいで淵の・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ロシアのひどく炭酸ガスを出す木炭の入った小箱がある。柵があって中に台つきコップ、匙などしまってある。車掌は旅客に茶を出す。小型変電機もある。壁に車内備付品目録がはってあるのを見つけた。 ――モスクワへ帰るとみんな調べうけるんですか?・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。「おや。さようでございましたか。先っき瓦斯煖炉に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・部屋には炭酸瓦斯が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにすぎなかった。 こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫