・・・私は一人の学生と一人の女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息をついて安堵したが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ その時、母はいいわけするのもあほらしいという顔だったが、一つにはいいわけする口を利く力もないくらい衰弱しきっていて、私に乳を飲ませるのもおぼつかなく、びっくりした産婆が私の口を乳房から引き離した時は、もう母の顔は蝋の色になっていて歯の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
この月の二十日前後と産婆に言われている大きな腹して、背丈がずんぐりなので醤油樽か何かでも詰めこんでいるかのような恰好して、おせいは、下宿の子持の女中につれられて、三丁目附近へ産衣の小ぎれを買いに出て行った。――もう三月一日だった。二三・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・心弱さから彼女はそれを夫に秘していた。産婆の診察日に彼女は顫えた。しかし胎児には異状はなかったらしかった。そのあとで信子は夫に事のありようを話した。行一はまだ妻の知らなかったような怒り方をした。「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・の家に育ちしただの女が初めて子を持ちしまでゆえ、無論小児を育てる上に不行き届きのこと多きに引き換え、母上は例の何事も後へは退かぬご気性なるが上に孫かあいさのあまり平生はさまで信仰したまわぬ今の医師及び産婆の注意の一から十まで真っ正直に受けた・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・「マツ子は、いろが黒いから産婆さんにでもなればよい。」と或る日、私がほかのことで怒っていたときに、言ってやった。そんなに醜く黒くはないのだけれども、鼻もひくいし、美しい面貌ではない。ただ、唇の両端が怜悧そうに上へめくれあがって、眼の黒く・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・そして私の座ぶとんの上へおろして、その上で人間ならば産婆のすべき初生児の操作法を行なおうとするのである。私は急いで例の柳行李のふたを持って来て母子をその中に安置したが、ちょっとの間もそこにはいてくれないで、すぐにまた座敷じゅうを引きずり歩く・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・信州の宿屋の一こま、産婆のいかがわしい生活の一こま、各部は相当のところまで深くつかまれているけれども、場面から場面への移りを、内部からずーと押し動かしてゆく流れの力と幅とが足りないため、移ったときの或るぎこちなさが印象されるのである。 ・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・新しくなろうとして熱心な村の人々にとって、根気よい産婆役をしているのであった。「しかしね、モラトリアムでいくらかいいかもしれないよ。――この間うちの相場は、二百円だった」「一票が、かい?」「ああ。百円じゃいやだというそうだ。東京・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・ 杉林や空地はどれも路の右側を占めていて、左側には、団子坂よりの人力宿からはじまって、産婆のかんばんのかかった家などこまごまと通って、私たちが育った家から奥の動坂よりには、何軒も代々の植木屋があった。 うちの前も善ちゃんという男の子・・・ 宮本百合子 「からたち」
出典:青空文庫