・・・ 女はちょいと云い澱んだ後、今度は朗読でもするようにすらすら用向きを話し出した。新之丞は今年十五歳になる。それが今年の春頃から、何ともつかずに煩い出した。咳が出る、食欲が進まない、熱が高まると言う始末である、しのは力の及ぶ限り、医者にも・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国京城へ赴任する事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の私の驚きは、大抵御想像がつきましょう・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・それからやっと大儀そうに、肝腎の用向きを話し始めた。「この壁にある画だね、これはお前が懸け換えたのかい?」「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝僕が懸け換えたのです。いけませんか?」「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そうして是非一度若旦那に御目にかかって、委細の話をしたいのだが、以前奉公していた御店へ、電話もまさかかけられないから、あなたに言伝てを頼みたい――と云う用向きだったそうです。逢いたいのは、こちらも同じ思いですから、新蔵はほとんど送話器にすが・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
自分が中村彝氏を訪問したのはあとにも先にもただ一度である。 田中舘先生の肖像を頼む事に関して何かの用向きで、中村清二先生の御伴をして、谷中の奥にその仮寓を尋ねて行った。それは多分初夏の頃であったかと思う。谷中の台地から・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・箱根は二十年も昔水産関係の用向きで小田原へ行ったついでに半日の暇を盗んで小涌谷まで行ったのと、去年の春長尾峠まで足を使わない遠足会の仲間入りをした外にはほとんど馴染のない土地である。それで今度は未見の箱根町まで行って湖畔で昼飯でも食って来よ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・主人は客の如く、家は旅宿の如く、かつて家族団欒の楽しみを共にしたることなし。用向きの繁劇なるがために、三日父子の間に言葉を交えざるは珍しきことにあらず。たまたまその言を聞けば、遽に子供の挙動を皮相してこれを叱咤するに過ぎず。然るに主人の口吻・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・ 由紀子という若い母が、どういう用向きで二人の子をひきつれて外出したかが記事の中に語られていないのは遺憾である。けれども、私たちは、自分で自分の必要とした目的のために、動く自由はもっている。交通機関が極端な殺人状態の昨今、ただの気保養に・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・その記者は重吉とうち合わせてあった用向きについて事務的に話してから、煙草に火をつけ、世間話をはじめた。「この間うちから僕は徳田さんにも会ったし、志賀さんにも会えたんですが、袴田里見さんていうのは、一体どんな人です? どうにも会えないで残・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫