・・・今の世にこんな事のできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖徒の仕事だろう。三重吉は嘘を吐いたに違ない。 或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立てて侘びしい事を書き連ねていると、ふと妙な音が耳に這入った。縁側でさらさら・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・こう云う望があるから、へー行きましょうとは答えなかったが、自分の望み通りの人で下宿人を置く処があるかそれがすこぶる疑わしい。広い世界にはあるだろう。けれどもそれに逢着するのは難中の難事である。我輩の先生の処が一間あいておれば置てもらうのだけ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・あのような文学的発足をした谷崎氏にあってそうであるとすれば、その他の日本の代表的ブルジョア作家が、はたしてどの程度にインテリゲンチアとして今日の封建性に対する筋骨の剛さを実際力として備えているか、疑わしいと思う。 大宅氏は、『文芸』の論・・・ 宮本百合子 「冬を越す蕾」
・・・喧嘩が本気なのかどうか疑わしい心持になった。マリーナにとっても、夫のそういう態度は不満であった。自分一人の口過ぎさえしていれば、エーゴル・マクシモヴィッチにとって自分はどこに暮していようとかまわない存在なのか。三百円返す気はないのか。異様な・・・ 宮本百合子 「街」
・・・風も吹かず、日光も照らず、どんより薄ぐもりの空から、蒸暑い熱気がじわじわ迫って来る処に凝っと坐り、朝から晩まで同じ気持に捕えられていると、自分と云うものの肉体的の存在が疑わしいようになる――活きて、動いて、笑い、憤りしていた一人の女性として・・・ 宮本百合子 「文字のある紙片」
・・・ただ疑わしい処をゾフィインアウスガアベで調べて見ただけである。コンメンタアルの類も多少持っている。それも一々読んで置いて訳したのではない。ただ疑わしい処をコンメンタアルで調べて見ただけである。こう云う方法に従ったのは、単に手数を省こうとした・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・そして何か疑わしい事があると、三冊になっているゾフィインアウスガアベを出して見た。さてもう全部訳してしまってからの事である。ある日化学をしている友人が来たので雑談をしているうちに、私がこう云った。「ギョオテは詩人で同時に自然学者だ。それにフ・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
・・・いや、その満足も疑わしい。直接行動煽動者として拘引でもされようものなら、官憲に対する烈しい反抗心が起こるであろう。聴衆に冷笑されたりしようものなら、日本人が皆非国民になってしまったような心細い感じが起こるであろう。そうすれば今よりもいっそう・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・もしそれが、ローマを襲ったキリスト教のように、単にただ純然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが国の文化全体を動かし得たかどうかは疑わしい。我らの祖先は当時なお、一つの偉大な宗教をただ宗教として、あるいは一つの偉大な思想をただ思想として・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・しかし漱石の家庭生活がその心境と同じように一歩高いところへ開けて行っていたかどうかは疑わしい。夫人が素直に漱石について歩いていれば、あるいは漱石がその精力を家庭の方へ傾けていれば、たぶんそうなっていたであろう。しかしこの期間の生活の痕跡を一・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫