・・・そこでは私は夕餉の時分きまって発熱に苦しむのである。私は着物ぐるみ寝床へ這入っている。それでもまだ寒い。悪寒に慄えながら秋の頭は何度も浴槽を想像する。「あすこへ漬ったらどんなに気持いいことだろう」そして私は階段を下り浴槽の方へ歩いてゆく私自・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・―― 夕方の発熱時が来ていた。冷たい汗が気味悪く腋の下を伝った。彼は袴も脱がぬ外出姿のまま凝然と部屋に坐っていた。 突然匕首のような悲しみが彼に触れた。次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮か・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・そうして跡にのこるものは、頭痛と発熱と、ああ莫迦なことを言ったという自責。つづいて糞甕に落ちて溺死したいという発作。 私を信じなさい。 私はいまこんな小説を書こうと思っているのである。私というひとりの男がいて、それが或るなんでもない・・・ 太宰治 「玩具」
・・・また、うっかり注射でも怠ろうものなら、恐水病といって、発熱悩乱の苦しみあって、果ては貌が犬に似てきて、四つ這いになり、ただわんわんと吠ゆるばかりだという、そんな凄惨な病気になるかもしれないということなのである。注射を受けながらの、友人の憂慮・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拝せられましたが、その頃が峠で、それからは謂わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋、尼御台さまは御台所さ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・私は五、六年前から、からだの調子を悪くして、ピンポンをやってさえ発熱する始末なのである。いまさら道場へかよって武技を練るなどはとても出来そうもないのである。私は一生、だめな男なのかも知れない。それにしても、あの鴎外がいいとしをして、宴会でつ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・前者は川沿いのある芝地を空風の吹く夜中に通っていると、何者かが来て不意にべろりと足をなめる、すると急に発熱して三日のうちに死ぬかもしれないという。後者は、城山のふもとの橋のたもとに人の腕が真砂のように一面に散布していて、通行人の裾を・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・その日自分は感冒で発熱して寝ていたが、その死骸をわざわざ見る気がしなかったから、ただそのままに裏の桃の木の根方に埋めさせた。目で見なかった代わりに、自分の想像のカンバスの上には、美しい青草の毛氈の上に安らかに長く手足を延ばして寝ている黄金色・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵を回らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合の花弁をひたふるに吸える心地である。ランスロット・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・僕はそれを見て卒倒し、二日間も発熱して臥てしまった。幼年時代はすべての世界が恐ろしく、魑魅妖怪に満たされて居た。 青年時代になってからも、色々恐ろしい幻覚に悩まされた。特に強迫観念が烈しかった。門を出る時、いつも左の足からでないと踏み出・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫