・・・にずらり頭を駢べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機会を見す見す看過し、国家百年の大計からいえば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・いやだ、いやだ――青い麦の芽達が、頭を振りながら、善ニョムさんの眼前に現われて来た。「いやだ、俺ァ……、あの麦に指一本でもさわってみろ、こんだァあの娘ッ子を、あいつが麦を踏みちぎったように、あの断髪頭をたたき潰してやる……」――・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・かく説明する僧侶の音声は如何によく過去の時代の壮麗なる式場の光景を眼前に髣髴たらしめるであろうか。 自分は厳かなる唐獅子の壁画に添うて、幾個となく並べられた古い経机を見ると共に、金襴の袈裟をかがやかす僧侶の列をありありと目に浮べる。拝殿・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶色の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・従来の儘なる我国男女間の関係を彼等の眼前に示して其醜態を満世界に評判せらるゝは、国光上の一大汚点、日本国民として断じて忍ぶを得ず。之を矯正する一日を遅くすれば則ち一日の恥を永うす可し。世人の改新を促して自から謹ましめ以て国の体面を清潔にする・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現て来ている。――私の心というものは、その女に惹き付けられた。 これが併し動機になったんだ。勢い極まって其処まで行ったんだが、……これが畢竟一転する動機となったん・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・、とのみ詠むのほか、花のうつくしさ、月の清さ、鳥の啼く声をしみじみと身にしめて感じたる後に詠むということなければ、変化のなきのみか、その景象を明瞭に眼前に浮ばしむることは絶えてあるなし。曙覧の叙景法を見るにしからず。例えば「赤きもみぢに霜ふ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・すると、その一つが環となって、夥しい問題が私たちの眼前に浮び上って来るのである。日本の農村の生産は現在のままの様式で最高の能率をあげ得るのだろうか。同時に、都会の工場が、何故こうも平和産業に転換することがのろいのであろう。これ迄は変則なイン・・・ 宮本百合子 「現実に立って」
・・・彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。 彼の肉体に植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・彼は民衆の力の勃興を眼前に見ながら、そこに新しい時代の機運の動いていることを看取し得ないのであった。正長、永享の土一揆は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉の土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰は、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫