・・・ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったも・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ Mは長ながと寝ころんだまま、糊の強い宿の湯帷子の袖に近眼鏡の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければならぬ、その創作のことを指すのだった。 Mの次の間へ引きとった後、僕は座蒲団を枕にしながら、里見八犬伝を読み・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下の方から、禿げ上がった両鬢へとはげしくなで上げた。それが父が草臥れた時のしぐさであると同時に、何か心にからんだことのある時のしぐさだ。彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取っ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物を縫っていた婆やが、眼鏡をかけた顔をこちらに向けて、上眼で睨みつけながら、「また泣かせて、兄さん悪いじゃありませんか年かさのくせに」 といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそう・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・と、当御堂の住職も、枠眼鏡を揺ぶらるる。 講親が、「欣八、抜かるな。」「合点だ。」 四「ああ、旨いな。」 煙草の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐りそうに蹲みながら、銜えた煙管の吸口・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・いのに、真鍮の薬罐から湯気を立たせたのを前に置き、煤けた棚の上に古ぼけた麦酒の瓶、心太の皿などを乱雑に並べたのを背後に背負い、柱に安煙草のびらを張り、天井に捨団扇をさして、ここまでさし入る日あたりに、眼鏡を掛けて継物をしている。外に姉さんも・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、「そらまあ……」 驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に逢ったら元気づいた。これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶をしたらしい。「おッ母・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗幽照にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・八 浅草生活――大眼鏡から淡島堂の堂守 椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。 伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったか・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・緑雨と一緒に歩いた事も度々あったが、緑雨は何時でもリュウとした黒紋付で跡から俥がお伴をして来るという勢いだから、精々が米琉の羽織に鉄欄の眼鏡の風采頗る揚らぬ私の如きはどうしてもお伴の書生ぐらいにしか見えなかったであろう。 緑雨が一日私の・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
出典:青空文庫