・・・私はフランネルの着物を着て、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。 私のいる温泉地から、少しばかり離れた所に、三つの小さな町があった、いずれも町というよりは、村というほどの小さな部落であったけれども、その中・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額に瘤を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰む・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・銅版画なんぞで見るような古風な着物を着ているのでございます。そしてそのじいっと坐っている様子の気味の悪い事ったらございません。死人のような目で空を睨むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間ではございませんぜ。旦那様、お怒なす・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・王は棺の中に在って、顔は勿論、腹から足迄白い着物が着せてあるところがよく見える。王の目は静かにふさいでいる。王は今天国に上っている夢を見ているらしい。此画を見た時に余は一種の物凄い感じを起したと同時に、神聖なる高尚なる感じを起こした。王の有・・・ 正岡子規 「死後」
・・・殊に四、五人の女たちが、けばけばしい色の着物を着て、向うを歩いていましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に照ってきたからでした。 いつか校長も黄いろの実習服を着て来ていました。そして足あとはもう四つまで完全にとられたのです・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ 縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめた木箱を、六畳の方へ運び入れてくれた。夫婦揃ったところを見ると、陽子は微に苦笑したい心持になった。薄穢く丸っこいところから、細々したことに好奇心を抱くと・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 女は直ぐに着物の前を掻き合せて、起き上がろうとした。「ちょっとそうして待っていて下さい」 と、花房が止めた。 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌を伺うように、小声で云った。「なんでございましょう」「腫瘍は腫瘍だが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・さて葬いのあった翌日からは、ユリアは子供の着物を縫いはじめた。もう一月で子供が生れることになっていたからである。 ツァウォツキイは無縁墓に埋められたのである。ところがそこには葬いの日の晩までしかいなかった。警察の事に明るい人は誰も知って・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ これと対い合ッているのは四十前後の老女で、これも着物は葛だが柿染めの古ぼけたので、どうしたのか砥粉に塗れている。顔形、それは老若の違いこそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二つで……ちと軽卒な判断だが、だからこの二人は多分母子だろう。・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫