・・・の半纏、お召の前掛、しどけなく引掛に結んだ昼夜帯、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰めしめ、警察官をしては坐に嫌疑の眼を鋭くさせるような国貞振りの年増盛りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七輪、水瓶、竈、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・吹聴の程度が木村氏の偉さと比例するとしても、木村氏と他の学者とを合せて、一様に坑中に葬り去った一カ月前の無知なる公平は、全然破れてしまった訳になる。一旦木村博士を賞揚するならば、木村博士の功績に応じて、他の学者もまた適当の名誉を荷うのが正当・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・それで彼らのヴィジョンが破れ、悠々たる無限の時間が、非東洋的な現実意識で、俗悪にも不調和に破れてしまった。支那人は馳け廻った。鉄砲や、青竜刀や、朱の総のついた長い槍やが、重吉の周囲を取り囲んだ。「やい。チャンチャン坊主奴!」 重吉は・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・静寂が破れて轟音が朝を掻き裂いた。運転手も火夫も、鋭い表情になって、機械に吸い込まれてしまった。 ――遊んでちゃ食えないんだ。だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!―― 私は一つの重い計画を、行李の代りに背・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・友人が笑って、鈎の先で腹に穴を開けたら、プスウと空気の抜ける音がして、破れた風船のようにしぼんでしまった。 河豚は生きているのを料理するよりも、死んで一日か二日経ってからの方がおいしい。料理法は釣る方とは関係がちがうから省くが、河豚釣り・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・娘の子なるゆえにとて自宅に居ても衣裳に心を用い、衣裳の美なるが故に其破れ汚れんことを恐れ、自然に運動を節して自然に身体の発育を妨ぐるの弊あり。大なる心得違なり。小児遊戯の年齢には粗衣粗服、破れても汚れても苦しからぬものを着せて、唯活溌の運動・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ 鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな ふと眼を開けば夜はいつしか障子の破れに明けて渋柿の一つ二つ残りたる梢に白雲の往き来する様など見え渡りて夜着の透間に冬も来にけんと思わる。起き出でて簀子の端に馬と顔突き合わせながら口そそぎ手あらいす・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・榊山氏の文章は虚無的な色調の上に攪乱された神経と、破れて鋭い良心の破片の閃きとで或る種の市街戦の行われている国際都市の或る立場の人々としての現実を反映している。けれども、これらの文章の大体は、私たちが夜中にも立ち出て見送った兵士たちの生活と・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・なんでも障子の紙かなんかの破れた処から吹き込むようだねえ。あの手水場の高い処にある小窓の障子かも知れないわ。表の手水場のは硝子戸だけれども、裏のは紙障子だわね。」「そうでしょうか。いやあねえ。わたしもう手水なんか我慢して、二階へ帰って寝・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫