・・・ 御存じの通り、稲塚、稲田、粟黍の実る時は、平家の大軍を走らした水鳥ほどの羽音を立てて、畷行き、畔行くものを驚かす、夥多しい群団をなす。鳴子も引板も、半ば――これがための備だと思う。むかしのもの語にも、年月の経る間には、おなじ背戸に、孫も彦・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 四 渠は稲田雪次郎と言う――宿帳の上を更めて名を言った。画家である。いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐し」同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声もの・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 広瀬、大麻生、明戸などいえる村々が稲田桑圃の間を過ぎて行くうち、日はやや傾きて雨持つ雲のむずかしげに片曇りせる天のさま、そぞろに人をして暑さを厭う暇もなく心忙しく進ましむ。明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と家内に一言して、餌桶と網魚籠とを持って、鍔広の大麦藁帽を引冠り、腰に手拭、懐に手帳、素足に薄くなった薩摩下駄、まだ低くならぬ日の光のきらきらする中を、黄金色に輝く稲田を渡る風に吹かれながら、少し熱いとは感じつつも爽かな気分で歩き出した・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。佐吉さんでも居なければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです。汽車賃や何かで、姉から・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は白っぽくカサカサ乾いて、陽の光さえ微弱に感ぜら・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・稲はすっかり刈り取られて、満目の稲田には冬の色が濃かった。「僕には、そうも見えないが。」 その時の私には故郷を誇りたい気持も起らなかった。ひどく、ただ、くるしい。去年の夏は、こうではなかった。それこそ胸をおどらせて十年振りの故郷の風物を・・・ 太宰治 「故郷」
・・・いよいよ秋に入りまして郷里は、さいわいに黄金色の稲田と真紅な苹果に四年連続の豊作を迎えようとしています。此の際、本県出身の芸術方面に関係ある皆様にお集り願って、一夜ゆっくり東京のこと、郷里の津軽、南部のことなどお話ねがいたいと存じますので御・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・青い稲田が一時にぽっと霞んだ。泣いたのだ。彼は狼狽えだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕を流したのが少し恥かしかったのだ。 電車から降りるとき兄は笑うた。「莫迦にしょげてるな。おい、元気を出せよ」 そうして竜の小さな肩を扇子でポ・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫