・・・北緯四十一度を越えても稲田の黄熟しているのに驚く。大沼公園はなるほど日本ばなれのした景色である。鉄骨ペンキ塗りの展望塔がすっかり板に付いて見える。黄櫨や山葡萄が紅葉しており、池には白い睡蓮が咲いている。駒ヶ岳は先年の噴火の時に浴びた灰と軽石・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・町から東のO村まで二里ばかりの、樹蔭一つない稲田の中の田圃道を歩いて行った。向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振舞われた。それは強い薬臭い匂と甘い味をもった珍しい飲料であった。要するにそれは一種の甘い水薬であったのである。も・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ それは薄曇りの風の弱い冬日であったが、高知市の北から東へかけての一面の稲田は短い刈株を残したままに干上がって、しかもまだ御形も芽を出さず、落寞として霜枯れた冬田の上にはうすら寒い微風が少しの弛張もなく流れていた。そうした茫漠たる冬田の・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・右には未だ青き稲田を距てて白砂青松の中に白堊の高楼蜑の塩屋に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来る山々山骨黄色く現われてまばらなる小松ちびけたり。中に兜の鉢を伏せたらんがごとき山見え隠れするを向いの商人体の男に問う。何・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田の闇を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがい従って人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである。 これに限らず、人間と自然を引っくるめた有機体における自・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・桶屋は黒い痘痕のある一癖ありそうな男である。手ぬぐい地の肌着から黒い胸毛を現わしてたくましい腕に木槌をふるうている。槌の音が向こうの丘に反響して静かな村里に響き渡る。稲田には強烈な日光がまぶしいようにさして、田んぼは暑さに眠・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる。歌の言葉は聞き取れぬが、単調な悲しげな節で消え入るように長く・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・桜並木の小径をくだって、練兵場のやぶかげの近道を、いつも彼女が帰ってゆく土堤上の道にでると、もう夕映えも消えた稲田甫の遠くは紫色にもやっていた。「あなた、いつもここを、あの、いらっしゃったでしょ」 例の、肩をぶっつけるようにして、そ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・玉蜀黍の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の茸狩に、秋晴の日の短きを歎いているにちがいない。三門の町を流れる溝川の水も物洗・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・Oは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。それから三人前後して濡れた石を踏みながら典座寮と書いた懸札の眼につく庫裡から案内を乞うて座敷へ上った。 老師に会うのは約二十年ぶりであ・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
出典:青空文庫