・・・「呼んでいる?」 牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。「空耳だよ。何が呼んでなんぞいるものか。」「気のせいですかしら。」「あんな幻燈を見たからじゃないか?・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・女にうまれた一生の思出に、空耳でも、僻耳でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、確に罰が当ったんです……ですが、この円髷は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯他へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張人声だ。蹄の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一敵だったら、其の時は如何する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ頭の髪の弥竪そうな目に遭おうも知ぬ。随分生・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。「もう一度」 少女は確かめたいばかりに、また汗を流・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・源叔父は櫓こぎつつ眼を遠き方にのみ注ぎて、ここにも浮世の笑声高きを空耳に聞き、一言も雑えず。「紀州を家に伴えりと聞きぬ、信にや」若者の一人、何をか思い出て問う。「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ解・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・と私は苦笑して、「さっきの咳ばらいは、おれの空耳であったべな。こうなると、どうも、男よりも女子のほうが、しっかりしている。それでは、どうか、よろしくたのむよ。」「はあ、承知しました。」たのもしげに、首肯きます。 私は、ほっとして、そ・・・ 太宰治 「嘘」
・・・しかし、それは空耳だった。廊下で、忍ぶ足音が聞える。しかし、それも空耳であった。鶴は呼吸が苦しく、大声挙げて泣きたいと思ったが、一滴の涙も出なかった。ただ、胸の鼓動が異様に劇しく、脚が抜けるようにだるかった。鶴は寝ころび、右腕を両眼に強く押・・・ 太宰治 「犯人」
出典:青空文庫