・・・ わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を歩み、枯枝や松毬を拾い集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代りにしている。また野菜を買いに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀で打ち切った薪雑木を長く継いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭の灯の細きより始まって次第に福や・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録も疾く紙屑屋の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥虚威を咎めてその停滞を今日に洩らさんとするは、空屋の門に立て案・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・唯薪が山のように積んである上へ棺を据えると穏坊は四方から其薪へ火をつける。勿論夜の事であるから、炎々と燃え上った火の光りが真黒な杉の半面を照して空には星が一つ二つ輝いでおる。其処に居る人は附添人二人と穏坊が一人と許りである。附添の一人が穏坊・・・ 正岡子規 「死後」
・・・女たちは、まだ栗鼠や野鼠に持って行かれない栗の実を集めたり、松を伐って薪をつくったりしました。そしてまもなく、いちめんの雪が来たのです。 その人たちのために、森は冬のあいだ、一生懸命、北からの風を防いでやりました。それでも、小さなこども・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・このごろの夏の雨にしめりつづけてたきつけにくい薪のこと、そのまきが乏しくて、買うに高いこと。干しものがかわかなくて、あした着て出るものに不自由しがちなこと。シャボンがまた高くなったこと。夏という日本の季節を爽快にすごすことも一つの文化だとす・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・その灰色の中に大きい竈が三つあって、どれにも残った薪が真赤に燃えている。しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿うて造りつけてある卓の上で大勢の僧が飯や菜や汁を鍋釜から移しているのが見えて来た。 このとき道翹が奧の方へ向いて、「お・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・で、彼は軒で薪を割りながら暇々に家の中の人声に気をつけた。 よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」 彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろ・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 己はその後中庭や畠で、エルリングが色々の為事をするのを見た。薪を割っている事もある。花壇を掘り返している事もある。桜ん坊を摘んでいる事もある。一山もある、濡れた洗濯物を車に積んで干場へ運んで行く事もある。何羽いるか知れない程の鶏の世話・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・田舎住なま薪焚きてむせべども躑躅山吹花咲くさかり 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫