・・・死刑に処せられたものの刑の執行を見届けたという書きものに署名をさせられるのであった。 茫然としたままで、フレンチは署名をした。どうも思慮を纏めることが出来ない。最早死の沈黙に鎖されて、死の寂しさをあたりへ漲らしている、を被った、不動の白・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・S・S・Sとは如何なる人だろう、と、未知の署名者の謎がいよいよ読者の好奇心を惹起した。暫らくしてS・S・Sというは一人の名でなくて、赤門の若い才人の盟社たる新声社の羅馬字綴りの冠字で、軍医森林太郎が頭目であると知られた。 鴎外は早熟であ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・そんな風で、いわばこちらで書き上げた物にただ署名してもらう位いにしても快諾されたことがある。 私は夏目さんとは十年以上の交際を続けたが、余り頻繁に往復しなかったせいでもあろうけれども、ただの一度も嫌な思いをさせられたことがない。なるほど・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・そうかと思うと一方には、代がわりした『毎日新聞』の翌々日に載る沼南署名の訣別の辞のゲラ刷を封入した自筆の手紙を友人に配っている。何人に配ったか知らぬが、僅に数回の面識しかない浅い交際の私の許へまで遣したのを見るとかなり多数の知人に配ったらし・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ けれども『書生気質』や『妹と背鏡』に堂々と署名した「文学士春の屋おぼろ」の名がドレほど世の中に対して威力があったか知れぬ。当時の文学士は今の文学博士よりは十層倍の権威があったものだ。その重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になって・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・そして、二人目の講師の演説が終った時には、もともと極端に走りやすい私はもう禁酒会員名簿に署名をしていました。そのころ東成禁酒会の宣伝隊長は谷口という顔の四角い人でしたが、私は谷口さんに頼まれて時々演説会場で禁酒宣伝の紙芝居を実演したり、東成・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・という、いわば相手の武器をとって、これを逆用するにも似た、そんなやり口を見て、おれは、さすがに考えやがったと思ったが、しかし、その攻撃文に「国士川那子丹造」という署名があるのを見て、正直なところ泪が出た。 しかし、これも薬を売る手段とあ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。この鑑賞の仕方は、頭のよさであり、鋭さである。眼力、紙背を貫くというのだ・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上を恐ろしきものに思い、可哀そうでならぬから、と誰にとも無き言いわけを、頬あからめて呟きつつ、その二人への赦免の書状に署名を為した。 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。凱旋・・・ 太宰治 「古典風」
・・・まず、その県のおもな新聞社へ署名して一部ずつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いそうな。彼には、一刻が百年千年のように思われた。五部十部と街じゅうの本屋にくばって歩いた。ビラを貼った。鶴を読め、鶴を読めと激しい語句をいっぱい刷り込んだ五・・・ 太宰治 「猿面冠者」
出典:青空文庫