・・・という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されてある。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降・・・ 太宰治 「富士に就いて」
・・・ 私は毎朝、新聞紙上で諸兄の署名なき文章ならびに写真を見て、かなしい気がする。これこそ読み捨てられ、見捨てられ、それっきりのもののような気がして、はかなきものを見るもの哉と思うのである。けれども、「これが世の中だ」と囁かれたなら、私、な・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私は軽蔑して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。 私は酒杯を手にして長大息を発した。この一字に依って、双葉山の十年来の私生活さえわかるような気がしたのである。横綱の忍の教えは、可憐である。・・・ 太宰治 「横綱」
・・・それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーショ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・日附の所に D. Berolini d. 19. mens. V anni MDCCCCIX とあって下に総長の署名がある。「ベルリン」までがラテン化しているのでまた少し驚いた。それからもう一枚哲学部長の署名のあるこれもラテン語の入学免状を・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・されば其の際僕の身は猶海外に在ったから拙著の著作権を博文館に与えたという証書に記名捺印すべき筈もなく、又同書出版の際内務省に呈出すべき出版届書に署名した事もないわけである。官庁及出版商に対する其等の手続は思うに当時博文館内に在った木曜会会員・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・その傍に JOHAN DECKER と云う署名がある。デッカーとは何者だか分らない。階段を上って行くと戸の入口に T. C. というのがある。これも頭文字だけで誰やら見当がつかぬ。それから少し離れて大変綿密なのがある。まず右の端に十字架を描・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・「ここへ署名したまえ。」 わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云いました。 わたくしはたまらなくなりました。「ファゼーロはど・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・であり、改革された土地に対する新しい自分たちの権利について署名したのが、自分の姓名のかきはじめだというような事情は、ロシヤの人民が文盲撲滅運動でピオニェールからアルファベットをおそわった頃、まずおぼえたのが、「ソヴェト」という字であったこと・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・もう托児所のことには署名がすんでいるのです。」 この技師とトラストへ出かけようとするインガを、ドミトリーが傍の思わくもかまわず止めた。「用がある」「あとで。――私はトラストへ行くんです。」「――俺に一分の時間をさけないのか?・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
出典:青空文庫