・・・縁側を歩かせるとまだ足が不たしかで、羽二重のようになめらかな蹠は力なく板の上をずるずるすべった。三毛を連れて来てつき合わせると三毛のほうが非常に驚き恐れて背筋の毛を逆立てた。しかしそれから数時間の後に行って見ると、だれかが押し入れの中にオル・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・彼は白足袋に角帯で単衣の下から鼠色の羽二重を掛けた襦袢の襟を出していた。「今日はだいぶしゃれてるじゃないか」「昨夕もこの服装ですよ。夜だからわからなかったんでしょう」 自分はまた黙った。それからまたこんな会話を二、三度取りかわし・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・あるいは身幅の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重の小袖をもってすれば、たちまち風を引て噴嚔することあらん。 一国の政治は、いかにもその人民の智愚に適するのみならず、またその性質にも適せざるべか・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を許すなどと命を出すゆえ、その命令は一藩経済のため歟、衣冠制度のため歟、両様混雑して分明ならず。恰も倹約の幸便に格式りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱き、到底・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ それからこれはまっ赤な羽二重のコップでしょう。この花びらは半ぶんすきとおっているので大へん有名です。ですからこいつの球はずいぶんみんなで欲しがります。」「ええ、全く立派です。赤い花は風で動いている時よりもじっとしている時のほうがい・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・亜麻色の濃い髪を垂れ、赤い羽二重の寛衣をつけた人形は、わざとらしい桃色の唇に永劫変らない微笑を泛べ、両手をさし延して何かを擁き迎えようとしながら、凝っと暗い空洞の眼を前方に瞠っているのだ。 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・大名、武家に対して町人の服装は制限されていたから、表は木綿で裏には見事な染羽二重をつける服飾も、粋という名で町人の風俗となった。武家の能狂言に対して、芝居が発達した。その大門をくぐれば、武士も町人も同等な男となって、太夫の選択にうけみでなけ・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
十二月の中旬、祖母が没した。八十四歳の高齢であった。棺前祭のとき、神官が多勢来た。彼等の白羽二重の斎服が、さやさや鳴り拡がり、部屋一杯になった。主だった神官の一人がのりとを読んだ。中に、祖母が「その性高く雄々しく中條精一郎・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・ それを二本の指でつまんで小供げな様子であの仲店の敷石の上を羽二重の裾を気軽らしくさばいて二人にかるい調子で話をしながら歩いてかなり混んだ電車にのりました。一番はじっこにむずかしい顔をして額を押えて居た四十位の商人は私の大きくくった袂を・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫