・・・ と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲は元の静けさにかえりました。 そこで二人は第二の門を通ってまたかきがねをかけました。 その先には作物を作らずに休ませておく畑があって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・彼女の物を言わない胸の裡には、只、心を見透おす神ばかりに聞える、無限の啜泣きがあったのです。 今度こそ、眼と耳と両方を使って、彼女の良人は眼と同様に耳も働かせた厳重な検査をし、二度目の、物を云える妻と、結婚しました。〔一九二三年二月〕・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちの囁き、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤の言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は、敢然と顔を挙げ、「提燈行列です。」と兄に報告した。・・・ 太宰治 「一燈」
・・・小銃の音が豆を煎るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩られて、その兵士はガックリ前にった。胸に弾丸があたったのだ。その兵士は善い男だった。快活・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・間もなく同じ音がずっと遠くから聞こえる。水鶏ではないかと思う。再び眠りに落ちてうとうとしながら、古い昔に死んだ故郷の人の夢を見た。フロイドの夢判断に拠るまでもなく、これは時鳥や水鶏が呼び出した夢であろう。 宿の庭の池に鶺鴒が来る。夕方近・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵ごとにその力を増すような西風に、とぎれて聞える鐘の声は屈原が『楚辞』にもたとえたい。 昭和・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・うとうとして居ると赤が吠えながら駈け出したように思われてはっと眼が醒めたり、鍋の破片へまけてやった味噌汁をぴしゃぴしゃと嘗めて居る音が聞えるように思われたり、自分の寝て居る床の下に赤が眠って居るように思われたりしてならなかった。彼は更に次の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。 廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出しているところもある。はるかの三・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫