・・・ われ漕げ、頭痛だ、汝漕げ、脚気だ、と皆苦い顔をして、出人がねえだね。 平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家の兄哥が、奴、汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴は顱巻の・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・中にも落第の投機家なぞは、どぶつで汗ッかき、おまけに脚気を煩っていたんだから、このしみばかりでも痛事ですね。その時です、……洗いざらい、お雪さんの、蹴出しと、数珠と、短刀の人身御供は―― まだその上に、無慙なのは、四歳になる男の児があっ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ ために私は蘇返りました。「冷水を下さい。」 もう、それが末期だと思って、水を飲んだ時だったのです。 脚気を煩って、衝心をしかけていたのです。そのために東京から故郷に帰る途中だったのでありますが、汚れくさった白絣を一枚きて、・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・――ああ、無理はない、脚気がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。「可厭ですことねえ。」 と、婀娜な目で、襖際から覗くように、友染の裾を曳いた櫛巻の立姿。 五 桜にはちと早い、木瓜か、何やら、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「この山代の湯ぐらいでは埒あかねえさ。脚気山中、かさ粟津の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体中掻毟って、目が引釣り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子も、店も田地までも打込んでね。一時は、三月ばかりも、家・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 余り突然だったので、故郷に急な用事でも出来たかと訊くと、脚気だといった。ソンナ気振はそれまでなかったのだから嘘とは思ったが、その日ぎりで来なくなってしまった。 それから二、三日過ぎて、偶然沼南夫妻の在籍する教会の牧師のU氏を尋ねる・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ たちまち丹造の欲がふくれて、肺病特効薬のほか胃散、痔の薬、脚気良薬、花柳病特効薬、目薬など、あらゆる種類の薬の製造を思い立った。いわば、あれでいけなければこれで来いと、あやしげな処方箋をたよりに、日本中の病人ひとり余さず客にして見せる・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・が、眠れたことより、あれほど怖れていた注射が自分で出来て、しかも針の痛さも案外すくなかったことの方がうれしく、その後脚気になった時もメタボリンを打って自分で癒してしまった。そしてそれからは注射がもう趣味同然になって、注射液を買い漁る金だけは・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・永年の持病の脚気が死因だった。鎌倉へも二度来た。二度目はこの三月で、私の部屋借りの寺へ二晩泊って上機嫌で酒を飲んで弟にお伴されて帰って行ったが、それが私との飲み納めだった。私は弟からの電話でこの八日に出てきたが、それから六日目の十三日に父は・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ ――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけと・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫