・・・青き戸帳が物静かに垂れて空しき臥床の裡は寂然として薄暗い。木は何の木か知らぬが細工はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍らには彼が平生使用した風呂桶が九鼎のごとく尊げに置かれて・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床の上に六尺一寸の長躯を投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頬へ線を画き、下唇は噛まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 雨のしとしとと降る裡を今に私共はこの妹を静かに安らえるために永久の臥床なる青山に連れて居かなければならない。黒い紋附に袴をはく。 棺前祭の始まる少し前あの妹を可愛いがって居て呉れたお敬ちゃんが来て呉れた。 涙をためて雨の中を送・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・まだ臥床。おカユ。食欲が出ないでいけません。私はどんなに参ってもすぐ食欲は恢復したのに、癪ね。今日は私は癒る確信がつきました。御安心下さい。本当はね。笑い草ですが、余り頭が苦しくて昏々と眠るからね、もしかしたらこの頃流行の嗜眠性脳炎ではない・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 人工流産を小さい番号札と最大限二十五―三十留までの金と三日の臥床とにだけ圧搾して考えるСССР的無智を啓蒙するために映画「第三メシチャンスカヤ街の恋」はどの程度に役立ったであろうか。第三メシチャンスカヤ街は労働者町だ。 良人とその・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ これからは青草も多く心のままに得られるだろうけれ共雪ばかり明け暮れ降りしきる北の国に定められた臥床もなくて居る時はさぞわびしいだろう。 あんまり自由すぎて育てられた子供の様な気で居るに違いない。 私はこんな事も思った。 そ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 勿論、心の賤しい、出鱈目の女ならば、自分は臥床に横って良人を叱するようなことがないとは云えません。又、人前では虚偽を装って、平常擲りつける妻の腕を、親切気に保ってやる男もないではありませんでしょう。 けれども、相当の人格を持った者・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 昨夜眠ったまま、もう永久に口をきかず、眼も見開かない自分が、冷たい冷たい臥床の中に見出されるだろう。 彼女は、彼女の知っている限りの美くしい言葉で考える。 両親の驚きと、歎き。自分に不当な苦痛や罵詈を与えた者達は、最後・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 青山の杉の根本の 永しへの臥床へ――。九月二十三日「悲しめる心」を書きあげる。十二月一日 病みてあれば 又病みてあればらちなくも 冬の日差しの悲しまれける 着ぶくれて見にくき・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫