・・・ けれども他の船客たちは、私と反対に、むくりむくり起きはじめ、身仕度にとりかかるやら、若夫人は、旦那のオオヴァを羽織って甲板に勇んで出て見るやら、だんだん騒がしくなるばかりである。私は、また起きた。自分ながら間抜けていると思った。ボオイ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ 船客の飼っている小鳥が籠を放れて食堂を飛び回るのをつかまえようとして騒いでいた。鳥はここが果てもない大洋のまん中だとは夢にも知らないのだろう。 飛び魚がたくさん飛ぶ、油のようなうねりの上に潮のしずくを引きながら。そして再び波にくぐ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ アメリカへ船が着く前に二等船客は囚徒のように一人一人呼び出されて先ず瞼を引っくら返されてトラフォームの検査を受けた。そうして金を千ドル以上持っているかを聞かれた。そうして上陸早々ホボケンの税関でこのチューインガムの税関吏のためにカバン・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・しかも一つ処を幾度も幾度もサロンデッキを逍遙する一等船客のように往復したらしい。 電燈がついた。そして稍々暗くなった。 一方が公園で、一方が南京町になっている単線電車通りの丁字路の処まで私は来た。若し、ここで私をひどく驚かした者が無・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・前田河広一郎の「三等船客」中西伊之助の「赭土に芽ぐむもの」藤森成吉の「狼へ!」「磔茂左衛門」宮嶋資夫の「金」細井和喜蔵の「女工哀史」「奴隷」等は新たな文学の波がもたらした収穫であった。 この新興文学の社会的背景が、ヨーロッパ大戦後の日本・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・船医にしろ、原因は卵焼の中毒であると、明らかに認めながら「けれども、永い航海の疲労と三日来の猛暑が船客達の胃腸を弱らせていたからです」と語っている。 このけれどもという短い言葉はその人たちを気の毒に思っている私たちの心もちに固くふれて来・・・ 宮本百合子 「龍田丸の中毒事件」
・・・ 汽船では働いている仲間が、精神を痺らす奴隷的な労働と泥酔との暇に、仲間同士性悪な悪戯をしかけるばかりでなく、袋を背負い、背中を曲げ、十字を切りながら乗りこんで来る船客たちも、十二歳のゴーリキイの心に一種名状し難い侮蔑的な重苦しい感じで・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫