一 倫理的な問いの先行 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・銘々勝手な事を読んで行って勝手な質問をする、それが唯一の勉強法なのでしたが、中には何を読んで好いか分らないという向がある。すると、正直に先生に其の旨をいって御尋ねする、それなら何を読んだら宜敷かろうと、学力相応に書物を指定して下さるといった・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ことが出来ぬ、独り自分のみでなく、天下の多数も亦た然り、而して単に天寿を全くすることが、必しも幸福でなく、必しも価値ある者でないとせば、吾等は病死其他の不自然の死を甘受するの外はなく、また甘受するのが良いではない歟、唯だ吾等は如何なる時、如・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所の旦那が、――「世の中には恐ろしい人殺しというものがある、詐偽というものもある、強盗というものもある。然し何が恐ろしいたって、この日本の国をひッくり返そうとする位おそろしいものが・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・不思議にも、ことしにかぎって、夏らしい短か夜の感じが殆んどわたしに起って来ない。好い風の来る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、暁から鳴く蝉の声、早朝からはじまるラジオ体操の掛声まで耳について、毎日三十度以上の熱した都会の空気の中で・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ここいらには好い人達が住まっているのだ。お前さんにも何かくれるよ。」「いやだ。己には出来ない。立派な家の戸口は幾らもあるが。」老人は胸の詰まっているような、強情らしい声で答えた。もっと大男の出しそうな声であった。「お前さんは息張って・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それは芝居にいるも好いけれどもね。その次ぎには内というものが好いわ。そして子供でも出来ようもんなら、それは好くってよ。そんなことはお前さんには分からないわね。御覧よ。内のちび達にこれを遣るのだわ。これがリイザ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・私が中学校で少しでも佳い成績をとると、おどさは、世界中の誰よりも喜んで下さいました。 私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が五、六枚かざられていて、私は子供心にも、その画に少し感心しました。そのうちの一枚を、二円で買いました。こ・・・ 太宰治 「青森」
ウィインで頗る勢力のある一大銀行に、先ずいてもいなくても差支のない小役人があった。名をチルナウエルと云う小男である。いてもいなくても好いにしても、兎に角あの大銀行の役をしているだけでも名誉には違いない。 この都に大勢いる銀行員と云・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫