・・・弟の手に養われて、それをよいことかのように思っている良人の心根が、今さらに情けなくも心細くも思われるのであった。「あなたはあまり気がよすぎるですよ、……正直すぎる」 こうも言って、彼が他人の感情に鈍感で、他人の恩恵を一図に善意にのみ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ おきのは、走りよって、息子のことを、訊ねてみたかったが、醤油屋へ、良人の源作が労働に行っていたのを思い出して、なお卑下して、思い止まった。 停車場には、駅員の外、誰れもいなくなった。おきのは、悄々と、帰りかけた。彼女は、一番あとか・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・が、お里の方では、そんなことで良人が心を使って病気が長びくと困ると思っていた。清吉の前では快活に骨身を惜まずに働いた。 木は、三百束ばかりあった。それだけを女一人で海岸まで出すのは容易な業ではなかった。 お里が別に苦しそうにこぼしも・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ 今度こそ、眼と耳と両方を使って、彼女の良人は眼と同様に耳も働かせた厳重な検査をし、二度目の、物を云える妻と、結婚しました。〔一九二三年二月〕 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・生来の臆病と、過度の責任感の強さとが、笠井さんに、いわば良人の貞操をも固く守らせていた。口下手ではあり、行動は極めて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋虫に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・君には、ひとりの良人を愛することさえできなかった。かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。恥じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味するか。ああ、君のぼろを見とどけてしまった私の眼を、私自身でくじり取ろうとした痛苦の夜々を、知っている・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がし・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ ふみ江の良人の家は在方であったが、学校へ通っている良人の青木は、町に下宿していたけれど、ふみ江は青木の親たちの方にいることになっていた。「子供はどうなんだ。脚が悪いそうじゃないか」「え、それで……」 すると姉がすぐ引き取っ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 涙を拭いたのは、其方の良人の兵士さんと私ばかりではありません。其周囲に居合せた人で、一人だッて涙を浮べない者はありませんでした。『……兄さん、何様事があったッて、死んじゃいやですよ。お国には、』と、また泣饒舌をなさる声が聞えたので・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・またあるいは一方の病気の如き、固より他の一方に痛痒なけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人五年の中風症、死に至るまで看護怠らずといい、内君七年のレウマチスに、主人は家業の傍ら・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫