・・・彼はただ常子と一しょに飯を食ったり、蓄音機をかけたり、活動写真を見に行ったり、――あらゆる北京中の会社員と変りのない生活を営んでいる。しかし彼等の生活も運命の支配に漏れる訣には行かない。運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機を御聞きになっていたようです。」「客は一人も来なかったですか?」「ええ、一人も。」「君が監視をやめたのは?」「十一時二十分です。」 吉井の返答もてきぱきしていた。「そ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・昼も薄暗いカフェの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機は浪花節か何かやっているようです。子犬は得意そうに尾を振りながら、こう白へ話しかけました。「僕はここに住んでいるのです。この大正軒と云うカフェの中に。――おじさんはどこ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・教壇の上では蓄音機が、鼻くたのような声を出してかっぽれか何かやっていた。 蓄音機がすむと、伊津野氏の開会の辞があった。なんでも、かなり長いものであったが、おきのどくなことには今はすっかり忘れてしまった。そのあとで、また蓄音機が一くさりす・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・一時は猫も杓子も有頂天になって、場末のカフェでさえが蓄音機のフォックストロットで夏の夕べを踊り抜き、ダンスの心得のないものは文化人らしくなかった。 が、四十年前のいわゆる鹿鳴館時代のダンス熱はこれどころじゃなかった。尤も今ほど一般的では・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・二 その家はりっぱな家で、オルガンのほかにピアノや蓄音機などがありました。露子は、なにを見ても、まだ名まえすら知らない珍しいものばかりでありました。そしてそのピアノの音を聞いたり、蓄音機に入っている西洋の歌の節など聞きました・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・そして、蓄音機は、静かに、鳴りひびいていました。しばらく、うっとりとして、彼女はお嬢さまのそばで、その音にききとれていると、目の前に広々とした海が開け、緑色の波がうねり、白馬は、島の空をめがけて飛んでいる、なごやかな景色が浮かんで見えたので・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・千日前から道頓堀筋へ抜ける道の、丁度真中ぐらいの、蓄音機屋と洋品屋の間に、その表門がある。 表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいは、われわれが法善寺の魔法のマントに吸・・・ 織田作之助 「大阪発見」
昨日 当時の言い方に従えば、○○県の○○海岸にある第○○高射砲隊のイ隊長は、連日酒をくらって、部下を相手にくだを巻き、○○名の部下は一人残らず軍隊ぎらいになってしまった。 彼は蓄音機という綽名を持ち、一年三百六十五日、一日も・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・とし、蓄音器は新内、端唄など粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラの娘ばかりで、下手に洋装した女や髪の縮れた女などは置かなかった。バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など附出しの小鉢物を作・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫