ふじわらのなかまろ【藤原仲麻呂】
[706〜764]奈良時代の公卿。武智麻呂 (むちまろ) の二男。橘奈良麻呂の乱を未然に抑えて淳仁天皇を擁立し、恵美押勝 (えみのおしかつ) の名を受け、太師(太政大臣)となって権勢を振るった。のち、孝謙上皇が道鏡を寵愛したため、これを除こうとして失敗し処刑された。
ふじわらのなりちか【藤原成親】
[1138〜1177]平安後期の公卿。後白河上皇の寵臣。平治の乱に敗れたが、平重盛との姻戚関係に救われる。のち、僧西光・俊寛らと鹿ヶ谷 (ししがたに) で平家討伐を計画したが、事前に漏れ、備前へ配流の途中で殺された。→鹿ヶ谷の議
ふじわらののぶざね【藤原信実】
[1176〜1265ころ]鎌倉前・中期の宮廷画家・歌人。隆信の子。法名、寂西。似絵 (にせえ) の技法を発展させ、「後鳥羽上皇像」「随身庭騎絵巻 (ずいしんていきえまき) 」「三十六歌仙絵巻」などの作者と伝えられる。また「今物語」の著者とされる。
ふじわらののぶふさ【藤原宣房】
[1258〜?]鎌倉末期の公卿。別名、万里小路 (までのこうじ) 宣房。後醍醐天皇の厚遇を受け、吉田定房・北畠親房とともに、後 (のち) の三房 (さんぼう) と称された。のち出家。日記「万一記 (まんいつき) 」がある。
ふじわらののぶより【藤原信頼】
[1133〜1160]平安後期の公卿。保元の乱ののち後白河上皇の信任を得て院別当となる。源義朝と結んで平治の乱を起こしたが、平清盛に敗れ、六条河原で処刑された。
ふじわらののりかね【藤原範兼】
[1107〜1165]平安後期の歌人・歌学者。従三位刑部卿。著「和歌童蒙抄」など。
ふじわらのはまなり【藤原浜成】
[724〜790]奈良時代の公卿。麻呂の子。大宰帥 (だざいのそち) 。娘婿の氷上川継の乱に連座して大宰員外帥となり、任地で没。著「歌経標式」など。
ふじわらのひでさと【藤原秀郷】
平安中期の東国の武将。俗称、俵藤太 (たわらとうた) 。平将門の乱を平貞盛とともに平定し、下野守・武蔵守となる。小山・結城氏などはその子孫。百足 (むかで) 退治の伝説でも知られる。生没年未詳。
ふじわらのひでひら【藤原秀衡】
[?〜1187]平安後期の陸奥 (むつ) の豪族。基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経をかくまって頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。
ふじわらのひろつぐ【藤原広嗣】
[?〜740]奈良前期の公卿。宇合 (うまかい) の長男。大宰少弐。玄昉 (げんぼう) ・吉備真備 (きびのまきび) らを批判し、九州で挙兵したが、約2か月で敗れた。