ふじわらのみちなが【藤原道長】
[966〜1028]平安中期の公卿。兼家の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。晩年に出家し、法成寺を造営。関白になった事実はないが御堂関白 (みどうかんぱく) と称された。日記「御堂関白記」がある。
ふじわらのみちのり【藤原通憲】
[1106〜1160]平安後期の公卿。出家して法号を円空、のち信西 (しんぜい) と称し、僧の身で後白河天皇の腹臣として活躍。平治の乱で捕らえられて処刑された。著に「本朝世紀」「法曹類林」などがある。
ふじわらのむちまろ【藤原武智麻呂】
[680〜737]奈良初期の公卿。不比等 (ふひと) の長男。南家の祖。大納言・右大臣などを経て左大臣になったが、疫病で死亡。
ふじわらのもといえ【藤原基家】
[1203〜1280]鎌倉中期の歌人。良経の子。正二位内大臣。「続古今和歌集」の撰者の一人。
ふじわらのもとつね【藤原基経】
[836〜891]平安前期の公卿。諡号 (しごう) 、昭宣公。通称、堀河太政大臣。叔父良房の養子となり、応天門の変で伴善男を失脚させ、また、光孝・宇多両天皇を擁立して最初の関白となり、娘温子を女御とするなど、藤原北家の権力を固めた。「文徳実録」を撰進。→阿衡 (あこう) 事件
ふじわらのもととし【藤原基俊】
[1060ころ〜1142]平安後期の歌人・歌学者。歌道では、伝統派の中心人物で、源俊頼と対立した。万葉集に次点(訓点)をつけた一人。藤原俊成の師。編著「新撰朗詠集」、家集「基俊集」など。
ふじわらのもとひら【藤原基衡】
平安末期の陸奥 (むつ) の豪族。清衡の子。秀衡の父。平泉に居館を構え、陸奥六郡を支配して奥州藤原氏3代の栄華を誇った。毛越寺 (もうつうじ) を建立。生没年未詳。
ふじわらのももかわ【藤原百川】
[732〜779]奈良後期の公卿。宇合 (うまかい) の子。初名、雄田麻呂。称徳天皇の没後、光仁天皇を擁立して道鏡を追放し、山部親王(桓武天皇)の立太子を実現するなど、藤原氏発展のもとをつくった。
ふじわらのもろすけ【藤原師輔】
[908〜960]平安中期の公卿。忠平の子。通称、九条殿。娘安子が村上天皇の皇后となり、子の兼通・兼家、孫の道長と続く摂関家の祖となった。有職故実の九条流の祖。著「九条年中行事」、日記「九暦 (きゅうれき) 」。
ふじわらのやすひら【藤原泰衡】
[1155〜1189]平安末期の陸奥 (むつ) の豪族。秀衡の子。父の遺言で源義経をかくまったが、頼朝方の圧迫に耐えかね、衣川の館 (たて) に攻めて殺した。のち、頼朝に攻められて逃走中、部下に殺され、奥州藤原氏は滅亡。