・・・ 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。 どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。 二人が立ってい・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・若々しい血潮は見る見る次郎の顔に上った。堅く組んだ手も震えた。私はまたハラハラしながらそれを見ていた。「オヽ、痛い。御覧なさいな、私の手はこんなに紅くなっちゃったこと。」 と、お徳は血でもにじむかと見えるほど紅く熱した腕をさすった。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は、鞭打たれなければならぬ男である。血潮噴くまで打たれても、私は黙っていなければならぬ。 夕焼も、生れながらに醜い、含羞の笑を以てこの世に現われたのではなかった。まるまる太って無邪気に気負い、おのれ意慾すれば万事かならず成ると、のんの・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐が流れるのだ。こう思った渠は一種の恐怖と憧憬とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。 修羅の巷が想像される。炸弾の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・して激昂する心を抑えてピアノの前に坐り所定曲目モザルトの一曲を弾いているうちにいつか頭が変になって来て、急に嵐のような幻想曲を弾き出す、その狂熱的な弾奏者の顔のクローズアップに重映されて祖国の同志達の血潮に彩られた戦場の光景が夢幻のごとくス・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・もしもの事があったら老い衰えた両親や妻子はどうなるのだと思うと満身の血潮は一時に頭に漲る。悶え苦しさに覚えず唸り声を出すと、妻は驚いてさし覗いたが急いで勝手の方へ行って氷を取りかえて来た。一時に氷が増してよく冷えると見えて、少し心が落付いた・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そして顔の血潮をぬぐって見ると頬は紅を帯びて世にも美しい顔ばせに見えた。王の血がフンドの指の間を伝い上って彼の傷へ届いたと思うと、傷は見るまに癒合して包帯しなくてもよいくらいになった。……王の遺骸はそれから後もさまざまの奇蹟を現わすのであっ・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・黒ずんだ血潮の色の幻の中に、病女の顔や、死んだ娘の顔や、十年昔のお房の顔が、呪の息を吹くやもりの姿と一緒に巴のようにぐるぐるめぐる。 二、三日経て後の夕方、荒物屋の座敷には隣家の誰れ彼れが大勢集まって酒を酌んでいた。畳屋も来ている、八百・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ 与謝野晶子さんがまだ鳳晶子といわれた頃、「やははだの熱き血潮にふれもみで」の一首に世を驚したのは千駄ヶ谷の新居ではなかった歟。国木田独歩がその名篇『武蔵野』を著したのもたしか千駄ヶ谷に卜居された頃であったろう。共に明治三十年代のことで・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・常に勝る豊頬の色は、湧く血潮の疾く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿したり。 白き香りの鼻を撲って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫