・・・海の上を行き来する雲を一日眺めているのもいいじゃないか。また僕は君が一度こんなことを言ったのを覚えているが、そういう空想を楽しむ気持も今の君にはないのかい。君は言った。わずか数浬の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は心失せし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は亡友の棺を枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大概は西洋形の帆前船で、その積み荷はこの浜でできる食塩、そのほか土地の者で朝鮮貿易に従事する者の持ち船も少なからず、内海を行き来する和船もあり。両岸の人家低く高く・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のような測量機でペンキ塗りのボンデンをのぞき、地図に何かを書きつけて、叫・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ じいさんとばあさんとは、大きな建物や沢山の人出や、罪人のような風をした女や、眼がまうように行き来する自動車や電車を見た。しかし、それはちっとも面白くもなければ、いゝこともなかった。田舎の秋のお祭りに、太鼓を舁いだり、幟をさしたり、一張・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・枯枝を拾いて砂に嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ それは、富士山の頂上を、ケシ飛んで行く雲の行き来であった。 麓の方、巷や、農村では、四十年来の暑さの中に、人々は死んだり、殺したり、殺されたりした。 空気はムンムンして、人々は天ぷらの油煙を吸い込んでいた。 一方には、一方・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・がゾクゾクと出て居るので段々彼方ちへ彼方へと行くと小川に松の木の橋がかかって居た、私が渡り終えてフット振向とそれは大蛇でノタノタと草をないで私とはあべこべの方へ這って行く、――私はびっくりして向う岸と行き来の道を絶たれた悲しさと自分のわたっ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ その日一日八度から九度の間を行き来して居た宮部の熱は、夜になっても別にあがりもしなかった。 それでも病人の部屋のわきの竹縁に消毒液をといた金□(がならんであったり、氷の音がしたりすると、皆は、いやなものをさしつけられた様な気持にな・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
出典:青空文庫