・・・ 遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。「御嬢さん。しっかりおしなさい。遠藤です」 妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。「・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ひきとは水が沖の方に退いて行く時の力のことです。それがその日は大変強いように私たちは思ったのです。踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっか・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・こんな事を済ましたあとでは、あんな所へでも行くのが却って好いのだ。」「ええ。そうですねえ。お気晴らしになるかも知れませんわねえ。」こう云って、奥さんは夫に同意した。そして二人共気鬱が散じたような心持になった。 夫が出てしまうと、奥さ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・そこで尻尾を振って居たが、いよいよ行くというまでに決心がつかなかった。百姓は掌で自分の膝を叩いて、また呼んだ。「来いといったら来い。シュッチュカ奴。馬鹿な奴だ。己れはどうもしやしない。」 そこで犬は小股に歩いて、百姓の側へ行掛かった。し・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。A そうか。君は来るたんび引越しの披露をして行くね。B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するような事件が無いからだ。A 葉書でも済むよ。B しかし今度のは葉書では済まん。・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 白き牡丹の大輪なるに、二ツ胡蝶の狂うよう、ちらちらと捧げて行く。 今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流に変じて、胸の中に舟を纜う、烏帽子直垂をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯めず、臆せず、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・われに等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸続として、約二十町の間を引ききりなしに渡り行くのである。十八を頭に赤子の守子を合して九人の子供を引連れた一族もその内の一群であった。大人はもちろん大きい子供らはそれぞれ持物がある。五ツにな・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ほんとに娘をもつ親の習いで、化物ばなしの話の本の中にある赤坊の頭をかじって居るような顔をした娘でも花見だの紅葉見なんかのまっさきに立ててつきうすの歩くような後から黒骨の扇であおぎながら行くのは可愛いいのを通りすぎておかしいほどだ。それだのに・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・僕などは、もう、ぶるぶる顫て、喰う気にもなれなんだんやけど、大石軍曹は、僕等のあたまの上をひゅうひゅう飛んで行く砲弾を仰ぎながら、にこにこして喰っておった。「腹が出来んといくさも出来ん。」僕等の怖なった時に、却って平気なもんであった。軍曹が・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫