・・・ 自分は鏡の中のこの光景を、しばらく眺めている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と久闊を叙し合おうか。が、多分先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よし・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・澄んだ水の表面の外に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋の襖をあけると、息気のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・何事も独りで噛みしめてみる私の性質として、表面には十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生を悪んだ。何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・おはまがよそ見をしてる間に、おとよさんが手早く省作のスガイ藁を三十本だけ自分のへ入れて助けてくれたので、ようやく表面おはまに負けずに済んだけれど、そういうわけだから実はおはまに三十本だけ負けたのだ。 省作はここにまごまごしていると、すぐ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・が、今のは自分の不利益になる事件が含んでいる代筆だ。僕は、何事もなるようになれというつもりで、苦しい胸を押えていた。が、表面では、そう沈んだようには見せたくなかったので、からかい半分に、「区役所が一番恋しいだろう?」「いいえ」吉弥はにッ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 然るに六十何人の大家族を抱えた榎本は、表面は贅沢に暮していても内証は苦しかったと見え、その頃は長袖から町家へ縁組する例は滅多になかったが、家柄よりは身代を見込んで笑名に札が落ちた。商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・緑雨の耽溺方面の消息は余り知らぬから、あるいはその頃から案外コソコソ遊んでいたかも知れないが、左に右く表面は頗る真面目で、目に立つような遊びは一切慎しみ、若い人たちのタワイもない遊びぶりを鼻頭で冷笑っていた。或る楼へ遊びに行ったら、正太夫と・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ありがもりもりと巣から出るように、地底から、気味悪い迫力をもって、社会の表面へ出ようとするのを感ぜずにはいられません。 もう一つ、これと連想するものに、児童の問題があります。 長い間、児童等の生活は、その責任と義務を、家庭と学校・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・ 附け加えていえば、文章の上に多くいわれる推敲ということは、単に表面的な文学上の修飾であってはならない。それはどこまでも内容を本位とするものでなければならない。 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
出典:青空文庫