・・・が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。 何週間かは経過した。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・負けじ魂の老人だけに、自分の体力の衰えに神経をいら立たせていた瞬間だったのに相違ない。しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪にさわったのだ。「おい早田」 老人は今は眼の下に見わたされる自分・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ いかに孝女でも悪所において斟酌があろうか、段々身体を衰えさして、年紀はまだ二十二というのに全盛の色もやや褪せて、素顔では、と源平の輩に遠慮をするようになると、二度三度、月の内に枕が上らない日があるようになった。 扱帯の下を氷で冷す・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・気の張りが全く衰えてどうなってもしかたがないというような心持ちになってしまった。 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・が、富は界隈に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく、財福艶福が一時に集まったが、半世の奮闘の労れは功成り意満つると共に俄に健康の衰えを来した。加うるに艶妻が祟をなして二人の娘を挙げると間もなく歿したが、若い美くしい寡婦は賢にして能く婦道を守って・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急にしてこれに酬ゆるに緩でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態に立ちいたったのであります。しかし人間の強欲をもってするも地は永・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・しかし、その光も、だんだん衰えていって、なんとなくひとりいるのがさびしそうでありました。 ある朝、二人は、この大きなほたるも死んでいるのを見いだしました。そのときすでに、じめじめした梅雨が過ぎて、空は、まぶしく輝いていたのであります。・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・たった一人残った父の姉なのだが、伯母は二カ月ほど前博覧会見物に上京して、父のどこやら元気の衰えたのを気にしながらも、こう遠くに離れてはお互いに何事があっても往ったり来たりはできないだろうから――こう言って別れたのだが、やっぱしそういうことに・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・そんな彼らがわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼らから一篇の小説を書こ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・という声さえ衰えて沈んでいる。「御大事になされませんと……」「イヤ私も最早今度はお暇乞じゃろう」「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑を含んだ。しかし老人は真面目で「私も自分の死期の解らぬまでには老耄せん、とても長くは・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
出典:青空文庫