・・・ 到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、これは「分る」という言葉の意味の使い分けである事は勿論である。 アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・南阿弗利加の黒奴は獣の如く口を開いて哄笑する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微笑によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・こんな中腰の態度で、芝居を見物する原因は複雑のようですが、その五割乃至七割は舞台で演ずる劇そのものに帰着するのかも知れません。あの劇がね、私の巣の中の世界とはまるで別物で、しかもあまり上等でないからだろうと思うんです。こう云うと、役者や見物・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・その深遠な理由は、思想が人間性の苦悩の底へ、無限に深くもぐりこんで抜けないほどに根を持つて居るのと、多岐多様の複雑した命題が、至るところで相互に矛盾し、争闘し、容易に統一への理解を把握することができないこと等に関聯して居る。ニイチェほどに、・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・アークライトが緑の茂みを打ち抜いて、複雑な模様を地上に織っていた。ビールの汗で、私は湿ったオブラートに包まれたようにベトベトしていた。 私はとりとめもないことを旋風器のように考え飛ばしていた。 ――俺は飢えてるんじゃないか。そして興・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・理屈ならぬ主観的歌想は多く実地より出でたるものにして、古人も今人もさまで感情の変るべきにあらぬに、まして短歌のごとく短くして、複雑なる主観的歌想を現すあたわず、ただ簡単なる想をのみ主とするものは、観察の精細ならざりし古代も観察の精細に赴きし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・『人民の文学』は、ひろく読まれているのに、詳細な書評が少ないのは、この複雑性によるとも考えられる。 宮本顕治の文芸評論をながめわたすと、いくつかの点に心をひかれる。その一つは、著者が若々しい第一作「敗北の文学」及び「過渡期の道標」で示し・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・どんな複雑な論理をも容易く辿って行く人が、却って器械的に諳んじなくてはならぬ語格の規則に悩まされたのは、想像しても気の毒だと、私はつくづく思った。 満州で年を越して私が凱旋した時には、安国寺さんはもう九州に帰っていた。小倉に近い山の中の・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・此の故官能表徴は表象能力として直接的であるそれだけ単純で、感覚的表徴能力のそれのようには独立的な全体を持たず、より複雑な進化能力を要求するわけには行かぬ。此の故清少納言の官能は新鮮なそれだけで何の暗示的な感覚的成長もしなかった。感覚的表徴は・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ 戦いの態度の純一は、複雑な内生よりも、単純な迷いのない生活にはるかに起こりやすい。それゆえただ純一のゆえに意を安めてはいけない。純一の態度に固執する者はともすれば内容を空疎にする。 私はある冬の日、紺青鮮やかな海のほとりに立った。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫