・・・ 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ、ついに小山をつくった。…… 六 これは、ほんの些細な、一小事件にすぎなかった。兵卒達は、パルチザンの出没や、鉄橋の破壊や、駐屯部隊の移動など、次から次へその注・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 九 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。 どちらへ行けばいいのか! 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・少年は焦るような緊張した顔になって、羨しげに、また少しは自分の鉤に何も来ぬのを悲しむような心を蔽いきれずに自分の方を見た。 しばらく彼も我も無念になって竿先を見守ったが、魚の中りはちょっと途断えた。 ふと少年の方を見ると、少年はまじ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・クリスマスのお祭りの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆いかくしている黒の仮面をつけた男と、それから三十四、五の痩せ型の綺麗な奥さんと二人連れの客が見えまして、男のひとは、私どもには後向きに、土間の隅の椅子に腰を下しましたが、・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・高粱の高い影は二間幅の広い路を蔽って、さらに向こう側の高粱の上に蔽い重なった。路傍の小さな草の影もおびただしく長く、東方の丘陵は浮き出すようにはっきりと見える。さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えた・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ われわれ先生に親しかった人々はよほど用心していないととかく自分等だけの接触した先生の世界の一部分を、先生の全体の上に蔽い被せてしまって、そうして自分等の都合のいいような先生を勝手に作り上げようとする恐れがある。意識的には無我の真情から・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・眼瞼に蔽いかかって来る氷袋を直しながら、障子のガラス越しに小春の空を見る。透明な光は天地に充ちてそよとの風もない。門の垣根の外には近所の子供が二、三人集まって、声高に何か云っているが、その声が遠くのように聞える。枕につけた片方の耳の奧では、・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔を蔽いかくした。 さて、午過ぎからは、家中大酒盛をやる事になったが、生憎とこの大雪で、魚屋は河岸の仕出しが出来なかったと云う処から、父は家のを殺して、出入の者共を饗応する事にした。一同喜び、狐の忍入・・・ 永井荷風 「狐」
・・・昼夜一 来往すること昼夜を無するや或連レ袂歌呼 或は袂を連ねて歌呼し或謔浪笑罵 或は謔浪笑罵す或拗レ枝妄抛 或は枝を拗りて妄りに抛て或被レ酒僵臥 或は酒に被いて僵臥す游禽尽驚飛 游禽・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫