・・・と自分は思った。見上げると十六日十七日と思える月が真上を少し外れたところにかかっていた。自分は何ということなしにその影だけが親しいものに思えた。 大きな通りを外れて街燈の疎らな路へ出る。月光は初めてその深祕さで雪の積った風景を照していた・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・その下に立って見上げると、深い大きな洞窟のように見える。梟の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字があって、そこから射して来る光が、道の上に押し被さった竹藪を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山の・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 岸を離れて見上げると、徳二郎はてすりによって見おろしていた、そして内よりは燈がさし、外よりは月の光を受けて、彼の姿がはっきりと見える。「気をつけないとあぶないぞ!」と、徳二郎は上から言った。「大丈夫!」と女は下から答えて「すぐ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・山岸の一方が淵になって蒼々と湛え、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。見上げると両側の山は切り削いだように突っ立って、それに雑木や赭松が暗く茂っていますから、下から瞻ると空は帯のよう・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 監獄のコンクリートの壁は、側へ行くと、思ったよりも見上げる程に高く、その下を歩いている人は小さかった。――自動車から降りて、その壁を何度も見上げながら、俺はきつく帯をしめ直した。 皮に入ったピストルを肩からかけ、剣を吊した門衛に小・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 女は少し顔を赤くして、チラッチラッと二、三度龍介を見上げると、「どうして、兄さん……」と言った。「俺は食わないんだ。いいから」「ソお、……なんだか……」 女はさかなを箸の先でつっついて、またひくく「いいの?」と言った。そし・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ といのると、頭の上で羽ばたきの音がしますから、見上げると、白鳩が村の方に飛んで行って雄牛のすがたはもうありませんでした。 おかあさんが子どもをさがしますと、道のそばで苺を摘んでおりました。しかしておかあさんはその苺をだれがそこには・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 父親はなんでもなさそうに呟きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。 そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。 スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生れた鬼・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・現に私などは、幼少の頃から、七夕の夜には空を見上げる事をさえ遠慮していた。そうして、どうか風雨のさわりもなく、たのしく一夜をお過しなさるようにと、小さい胸の中で念じていたものだ。恋人同志が一年にいちど相逢う姿を、遠目鏡などで眺めるのは、実に・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀抜と較べて、相まさること数倍である、と笠・・・ 太宰治 「八十八夜」
出典:青空文庫