・・・新蔵は狐につままれたような顔をして、無言のままお敏の顔を見返しました。それからお敏が、自分も新蔵の側へ腰をかけて、途切れ勝にひそひそ話し出したのを聞くと、成程二人は時と場合で、命くらいは取られ兼ねない、恐しい敵を控えているのです。 元来・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・へん、大袈裟な真似をしやがって、 と云う声がしたので、見ると大黒帽の上から三角布で頬被りをした男が、不平相にあたりを見廻して居たが、一人の巡査が彼を見おろして居るのに気が附くと、しげしげそれを見返して、唾でも吐き出す様に、畜・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・抱主がけちんぼで、食事にも塩鰯一尾という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇が恥かしかった。金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍されて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ とその女を見返したのであるが、そのとき吉田の感じていたことはたぶんこの女は人違いでもしているのだろうということで、そういう往来のよくある出来事がたいてい好意的な印象で物分かれになるように、このときも吉田はどちらかと言えば好意的な気持を・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 折田はぎろと堯の目を見返したまま、もうその先を訊かなかった。が、友達の噂学校の話、久濶の話は次第に出て来た。「この頃学校じゃあ講堂の焼跡を毀してるんだ。それがね、労働者が鶴嘴を持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」 その現に自分の乗・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・あまり思いがけなかったので驚いて見返した。継ぎはぎの着物は裾短かで繩の帯をしめている。白い手ぬぐいを眉深にかぶった下から黒髪が額にたれかかっている。思いもかけず美しい顔であった。都では見ることのできぬ健全な顔色は少し日に・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中の住いの詩的情趣を、専ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・と泰然として瞬き一ツせず却て僕の顔を見返した。「おぼし召じゃ困るね。いくらほしいのだ。」 斯ういう掛合に、此方から金額を明言するのは得策でない。先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 爺いさんは真面目に相手の顔を見返して、腰を屈めて近寄った。そして囁いた。「おれは盗んだのだ。何百万と云う貨物を盗んだ。おれはミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならないのだ。」 一本腕は目を大きくみはった。そして大声を出して・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・返事をし、自分の眼を見返し、輝く愛を認めて欲しく思い、ひとりでにそう行動します。 そこで、右のような場合は、決して無いものだとは思えないのです。 左様にして、彼を倶に愛すが故に朋友となり、進んで愛人同士のような感情の表現を持つように・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
出典:青空文庫