・・・彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 忠臣という言葉は少し奇異に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 世にある人びとにとっては、これほどいまわしく、おそろしい言葉はあるまい。いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個もあるまい。しかも、わたくしは、ほんとう・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・私は今までの苦労を忘れて、そんな言葉にうれしくなりました。 ところがお湯に入って何気なく娘の身体をみたとき、私はみる/\自分の顔からサーッと血の気の引いて行くのが分りました。私の様子に、娘も驚いて、「どうしたの、お母さん?」といゝました・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・おそらくどんな芸術家でも花の純粋を訳出することは不可能だと言って見せたロダンのような人もあるが、その言葉に籠る真実も思い当る。朝顔を秋草というは、いつの頃から誰の言い出したことかは知らないが、梅雨あけから秋風までも味わせて呉れるこんな花もめ・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・過去において明らかにかような名辞を用いたのは、私の知る限りでは、Professor W. H. Hudson のルーソー論に Naturalism in Life と言っているのなどがその最近の例である。これは言うまでもなくルーソーの「自然・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一足傍へ歩み寄って、まだ詞の口から出ないうちに笑いかけて云った。「お前さんはケッセル町の錠前屋のロオレンツさんじゃあないか。」「うん。そうだ。こないだじゅうは工場で働いていたのだが、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と、人間の通りの言葉でこう言いました。ウイリイはびっくりして、「おや、お前は口がきけるのか。それは何より幸だ。」と喜びました。そればかりか、耳にさえさわれば食べるものや飲むものがすぐにどこからか出て来るというのですから、これほど便利なこ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・此人の文章は実に美しく、云い表わしたい十のことは、三つの言葉でさとらせるように書きます。此物語の中にも沢山そう云う処がありますが、判り難そうな場処は言葉を足して、はっきり訳しました。此をお読みになる時は、熱い印度の、色の黒い瘠せぎすな人達が・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫