・・・と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴し立てている櫓舟に乗り、石川島を向うに望んで越前堀に添い、やがて、引汐上汐の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下を横ぎり、越中島から蛤町の堀割に這入るのであった・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄に遠くかすかになる……。 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜を拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗くよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があってね」「豆腐屋があって?」「豆腐屋があって、その豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺と云う御寺があってね」「寒磬寺と云う御寺がある?」「ある。今でもあるだろ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・それまでは、豆腐ん中に頭を突っ込んだ鰌見たいに、暴れられる丈け暴れさせとくんだ。―― セコンドメイトが、油を塗った盆見たいに顔を赤く光らせたのから、私は、彼の考えを見てとった。 私とても、言葉の上の皮肉や、自分の行李を放り込む腹癒せ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・桶豆腐にでもしましょうかね。それに油卵でも」「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」 吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被ッたまま吉里の後から室を出た。「・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索する様子なれども、肺に呼吸する空気を論ずるを知りて、子供の心に呼吸する風俗の空気を論ずる者あるを聞かず。世の中には宗旨を信心して未来を祈る者あり・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・――丁度お豆腐やさんがね参りまして」「何て依岡で云ったんだ」「――依岡様でよろしく申上てくれと仰云いました。いずれお正月にでもなりましたら旦那様も御全快になりますでしょうから、お二人様でおいでいただきましょうと仰云いました」「ふ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・の照焼に、盛りっきりの豆腐汁があるばかりであった。 小盆の上に「粥」と「梅びしお」といり卵の乗ったお君の食事を見て栄蔵は、あの卵は今日だけなんだろうなどと思った。 良吉は、油っ濃くでくでくに肥って、抜け上った額が熱い汁を吸う度びに赤・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫