・・・魂消える物の怪の話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟りを据えての恐と苦しみである。今宵の悩みはそれらには・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 倒れていた男はのろのろと起き上った。「青二才奴! よくもやりやがったな。サア今度は覚悟を決めて来い」「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩する気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」「何だ! 思い違いだと。糞面白くもねえ。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとする・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・朝早く起き夜は遅く寝ね、昼は寝ずして家の内のことに心を用ひ、織縫績緝怠べからず。又茶酒抔多く飲べからず。歌舞伎小唄浄瑠璃抔の淫たることを見聴べからず。宮寺抔都て人の多く集る所へ四十歳より内は余り行べからず。 婦人が内を治めて家事・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・もしか明日の朝起きて見まして彼奴が消えて無くなっていれば天の助というものでございます。わたくしは御免を蒙りまして、お家の戸閉だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水でも振り掛けて置きましょう。何にいたせわたくしはついぞあんな人間・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・「寝たのか、まだ明るぞ。起きろ。」 外ではまたはげしくどなった。(ああこんなに眠らなくては明日の仕事富沢は思いながら床の間の方にいた斉田を見た。 斉田もはっきり目をあいていて低く鉱夫だなと云った。富沢は手をふって黙っていろと云っ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらしい。彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・と言って臂を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」「そうか。それでは午になったと見える。少し・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そこで馬鹿らしいお話ですが、何度となく床から起きて、鏡の前へ自分の顔を見にいったのですね。わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しかしまあ世間普通の好男子ですね。世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性で、娘子の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫