・・・この男は、よわい既に不惑を越え、文名やや高く、可憐無邪気の恋物語をも創り、市井婦女子をうっとりさせて、汚れない清潔の性格のように思われている様子でありますが、内心はなかなか、そんなものではなかったのです。初老に近い男の、好色の念の熾烈さに就・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・釜のついた汽車よりも早いくらいに目まぐろしく谷を越えて駛った。最後の車輛に翻った国旗が高粱畑の絶え間絶え間に見えたり隠れたりして、ついにそれが見えなくなっても、その車輛のとどろきは聞こえる。そのとどろきと交じって、砲声が間断なしに響く。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 私たちは月見草などの蓬々と浜風に吹かれている砂丘から砂丘を越えて、帰路についた。六甲の山が、青く目の前に聳えていた。 雪江との約束を果たすべく、私は一日須磨明石の方へ遊びにいった。もちろんこの辺の名所にはすべて厭な臭味がついて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児の、敢て私ばかりと云うではあるまい。 父は内閣を「太政官」大臣を「卿」と称した頃の官吏の一人であった。一時、頻と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼らは手引を先に立てて村から村へ田甫を越える。げた裾から赤いゆもじを垂れてみんな高足駄を穿いて居る。足袋は有繋に白い。荷物が図抜けて大きい時は一口に瞽女の荷物のようだといわれて居る其紺の大風呂敷を胸に結んで居る。大きな荷物は彼等が必ず携帯す・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ かんかららんは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃な家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・之を解決する途は、各自が世界史的使命を自覚して、各自が何処までも自己に即しながら而も自己を越えて、一つの世界的世界を構成するの外にない。私が現代を各国家民族の世界的自覚の時代と云う所以である。各国家民族が自己を越えて一つの世界を構成すると云・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・ これ等の声の雑踏の中に、赤煉瓦を越えて向うの側から、一つの演説が始められた。 ――諸君、善良なる諸君、われわれは今、刑務所当局に対して交渉中である! 同志諸君の貴重なる生命が、腐敗した罐詰の内部に、死を待つために故意に幽閉されてあ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ もし心得ちがいの者ありて自由の分限を越え、他人を害して自から利せんとする者あれば、すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、貴賤長幼の差別なく、これを軽蔑して可なり、これを罰して差支なし。右の如く、人・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
出典:青空文庫