・・・どうか又熊掌にさえ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。 どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。 どうか菽麦すら弁ぜぬ程、愚昧にして下さいますな。どうか又雲気さえ察す・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・こう云う事実を見れば足りることである。が、あの実験心理学者はなかなかこんなことぐらいでは研究心の満足を感ぜぬのであろう。それならば今日生徒に教えた、De gustibus non est Disputandum である。蓼食う虫も好き好きで・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・――差し出たことだが、一尾か二尾で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 子守唄は子供を寝かしつけるための歌であり、又舟乗りの唄は、舟をこぐ苦労を忘れるための歌であり、糸とりの唄はたゞその唄う歌の節に少女自からを涙ぐましむることによって自らを感傷的な気持にすれば足りるというであろう。そういうような単純な目的・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・たゞ見る人が謙虚にして、それに対して考うるだけの至誠があれば足りるものだ。凡そ、そこには、子供と成人の区別すらないにちがいない。 真に、美しいもの、また正しいものは、いつでも、無条件にそうあるのであって、それは、理窟などから、遙かに超越・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・それであといくらも残らなかったがたぶん足りるだろうとのんきなことを考えながら、私をかき船に誘ったということだった。しかし、いくらのんきとはいえ、さすがに心配で、足りるだろうか、足りなければどうしようかなど考えながら食べていると、まるで味など・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・幼時は小学校に於て大津も高山も長谷川も凌いでいた、富岡の塾でも一番出来が可かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於て・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったもので・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・今この波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談をちょっと示そう。但しいずれも自分が仮設したのでない、出処はあるのである。いわゆる「出」は判然しているので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハハハ。 これは二百年近く古い書に・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 魚は言うほどもないフクコであったが、秋下りのことであるし、育ちの好いのであったから、二人の膳に上すに十分足りるものであった。少年は今はもう羨みの色よりも、ただ少年らしい無邪気の喜色に溢れて、頬を染め目を輝かして、如何にも男の児らしい美・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫