・・・でも、はじめの間はなにか躊躇していたようですけれど。 K君は自分の影を見ていた、と申しました。そしてそれは阿片のごときものだ、と申しました。 あなたにもそれが突飛でありましょうように、それは私にも実に突飛でした。 夜光虫が美しく・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・と言ったぎり自分が躊躇しているので斎藤は不審そうに自分を見ていたが、「イヤ失敬」と言って去って終った。十歩を隔てて彼は振返って見たに違ない。自分は思わず頸を縮めた。 母に会ったら、何と切出そう。新町に近づくにつれて、これが心配でならぬ。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・金を払うのに古い一円札ばかり十円出すのだったら躊躇するぐらいだ。彼女は番頭に黙って借りて帰ったモスリンと絣を、どう云ってその訳を話していゝか思案している。心を傷めている。――彼はいつのまにかお里の心持になっていた。――番頭が、三反持ってかえ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・捨ててしまっても勿体ない、取ろうかとすれば水中の主が生命がけで執念深く握っているのでした。躊躇のさまを見て吉はまた声をかけました。 「それは旦那、お客さんが持って行ったって三途川で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすったらどんなもの・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・そのために、そこに打ち込まれることを恐れて、若しも運動が躊躇されると考えるものがいるとしたら、俺は神にかけて誓おう――「全く、のん気なところですよ。」と。 第一、俺は見覚えの盆踊りの身振りをしながら、時々独房の中で歌い出したものだ―・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・この意識の消しがたいがために、義務道徳、理想道徳の神聖の上にも、知識はその皮肉な疑いを加えるに躊躇しない、いわく、結局は自己の生を愛する心の変形でないかと。 かようにして、私の知識は普通道徳を一の諦めとして成就させる。けれども同時にその・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・と、にっこりしたが、何だか躊躇の色が見える。二人で行ったとて誰が咎めるものかと思う。「だってあんまりですから」と、ややあって言う。「何が」「でもたった今これを始めたばかりですから」「ついでに仕上げてしまいたいのですか」「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・生れて、いまだ一度も嘘言というものをついたことがないと、躊躇せず公言している。それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直、潔白の一面は、たしかに具有していた。学校の成績は、あまりよくなかった。卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 姉はしばらく躊躇した果てに、やっと入ってきた。見るとふみ江もいっしょであった。 ふみ江は母とは反対に、相変らず派手な姿をして、子供をかかえていた。道太は子供が脊髄病のために、たぶん片方の脚が利かないであろうことを聞き知って、心を痛・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫