・・・神父はいつまでも身動きをしない。 そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。紋を染めた古帷子に何か黒い帯をしめた、武家の女房らしい女である。これはまだ三十代であろう。が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。第一妙に顔・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 僕は呆っ気にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ポチは身動きもしなかった。ぼくたちはポチを一目見ておどろいてしまった。からだじゅうをやけどしたとみえて、ふさふさしている毛がところどころ狐色にこげて、どろがいっぱいこびりついていた。そして頭や足には血が真黒になってこびりついていた。ポチだか・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・父は、私が農学を研究していたものだから、私の発展させていくべき仕事の緒口をここに定めておくつもりであり、また私たち兄弟の中に、不幸に遭遇して身動きのできなくなったものができたら、この農場にころがり込むことによって、とにかく餓死だけは免れるこ・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があっ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・その出番に、「太夫いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓を掉立て、「唯今、それへ。」 とひねこびれた声を出し、頤をしゃくって衣紋を造る。その身動きに、鼬の香を芬とさせて、ひょこひょこと行く足取が蜘蛛の巣を渡るよ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・どろりとした汚い悪水が、身動きもせず、ひしひしと家一ぱいに這入っている。自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまった。後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それで・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ ひのきの木は、身動きをしながら、「俺は、あの子に、いろいろな唄の節を教えてやったものだ。また、あの子が父親といっしょに、この木の下にいる時分は、雨や、風をしのいでやったものだ。蔭になり、ひなたになりして護ってやったことを、あの子は・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ これを聞くと、運命の星は、身動きをしました。そして、怖ろしくすごい光を発しました。なにか、自分の気にいらぬことがあったからです。「そんなに堅固な、身のほどの知らない、鉄というものが、この宇宙に存在するのか? 俺は、そのことをすこし・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・すると、私のその気勢に、今までじっと睡ったように身動きもしなかった銭占屋が、「君、どっかへ出るかね。」と頭を挙げて聞いた。 見ると、何んだか泣いてでもいたように、目の縁が赤くなっている。酒も醒めたとみえて、青い顔をしている。「な・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫