・・・もし多少の前借でも出来れば、―― 彼はトンネルからトンネルへはいる車中の明暗を見上げたなり、いかに多少の前借の享楽を与えるかを想像した。あらゆる芸術家の享楽は自己発展の機会である。自己発展の機会を捉えることは人天に恥ずる振舞ではない。こ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時の御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切に・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・それに耐え切れず、車中でウイスキーを呑み、それでもこらえ切れず途中下車して、自身の力で動き廻ろうともがくのである。 けれども、所謂「旅行上手」の人は、その乗車時間を、楽しむ、とまでは言えないかも知れないが、少なくとも、観念出来る。 ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ふと車中を見たかれははッとして驚いた。そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧しつけられるようになって、ちょうど烏の群れに取り巻かれた鳩とい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・一八の屋根に鶏鳴きて雨を帯びたる風山田に青く、車中には御殿場より乗りし爺が提げたる鈴虫なくなど、海抜幾百尺の静かさ淋しささま/″\に嬉しく、哀れを止むる馬士歌の箱根八里も山を貫き渓をかける汽車なれば関守の前に額地にすりつくる面倒もなければ煙・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・是亦車中百花園行を拒むもののなかった理由であろう。わたくし達は、又日々社会の新事物に接する毎に絶間なく之に対する批判の論を耳にしている。今の世は政治学芸のことに留らず日常坐臥の事まで一として鑑別批判の労をからなくてはならない。之がため鑑賞玩・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・その最後の一人は、一時に車中の目を引いたほどの美人で、赤いてがらをかけた年は二十二、三の丸髷である。オリブ色の吾妻コオトの袂のふりから二枚重の紅裏を揃わせ、片手に進物の菓子折ででもあるらしい絞りの福紗包を持ち、出口に近い釣革へつかまると、そ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 八月十八日 那須に十一時の夜行で立つ。車中、五六人の東山行の団隊、丸い六十近いおどけ男、しきりに仲間にいたずらをする。紙切を結びつけたりして。那須登山 三日目四五日目、Aの退屈、夏中出来なかった仕事のエキスキュース・・・ 宮本百合子 「「伸子」創作メモ(二)」
・・・彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えら・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫