・・・ 帰る途中で何だか少し落着かない妙な気がした。軽い負債でも背負わされたような気がしてあまり愉快でなかった。一体これはどうすれば善かったのだろう。代価を強いて取らせて破片だけを持って帰るのもあまりにぎごちない窮屈な気がする。二個分の代価を・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する憐愍を感じないわけにはいかなかった。「雪江さんも可哀そうだと思うね。どうかまあよくしてやってもらわなければ。もちろん財産もないので、これからはあなたも骨がおれるかもしれないけれど」私は言っ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・我らの政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君らの頭にひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしもうた。無政府主義が何が恐い? それほど無政府主義が恐いなら、事のいまだ大ならぬ内に、下僚ではいけぬ、総理大臣なり内務大臣なり自ら幸徳・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・わたくしは旧習に晏如としている人たちに対する軽い羨望嫉妬をさえ感じないわけには行かなかった。 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪の精のような気がした。 文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 深谷は、昨夜と同じく何事もないように、ベッドに入ると五分もたたないうちに、軽い鼾をかき始めた。「今夜はもう出ないのかしら」と、安岡は失望に似た安堵を感じて、ウトウトした。 と、また、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・それは火というものは軽いものでいつでも騰ろう騰ろうとしている。それからそれは明るいものだ。硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処に持って行けば立派にそこらを明るくする。火というものはいつでも照らそう照らそうとしてい・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・ずっとモスクワから乗りつづけて来たものは長い旅行が明日は終ろうとする前夜の軽い亢奮で。新しく今日乗り込んで来た連中は、列車ではじめての夕飯をたべながら。――(汽車の食堂は普通の食堂シベリアに雪はあるかと訊いた男が通路のむこう側のテーブルでや・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」「俺もこれで安心した。さア、もう眠るとい・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫