・・・無念骨髄に徹して歯を咬み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びてはかりごとを通じ力を合せ、時を得て風を巻き雲を起し、若君尚慶殿を守立てて、天翔くる竜の威を示さん存念、其企も既に熟して、其時もはや昨今に逼った。サ、かく大事を明かした・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・私は両方の拳を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その手を体の両側に、下へ向けてずっと伸ばしていよいよ下に落ち付いた処で、二つの円い、頭えている拳に固めた。そして小さく刻んだ、しっかりした足取で町を下ってライン河の方へ進んだ。不思議な威力に駆られて、人間の世の狭い処を離れて、滾々として流れ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・猿がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄に自分で一生懸命につかまって捕われるのを待つのである。 ごちそうに出した金米糖のつぼにお客様が手をさし込んだらどうしても抜けなくなったのでし・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精の握り拳とでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放していてやや薄暗くなりかけた頃に見ると、もうすべての花は一遍に開き切・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ 拳を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静に掌の上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団の上に卸した。そうして、烈しく手を鳴らした。 十六になる小女が、はいと云って敷居際に手を・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。拳の如き瘤のつきたる鉄棒を片手に振り翳して骨も摧けよと打てば馬も倒れ人も倒れて、地を行く雲に血潮を含んで、鳴る風に火花をも見る。人を斬るの戦にあらず、脳を砕き胴を潰して、人という形を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な胸を殴った。「おまい、寝られないのかい? 又早く出かけなけゃならないのにねえ」 おふくろは弱い声で云った。「お母さんも眠れないんですか。わしは今までグッスリ眠ったんですよ。腹の具合は少しはいい・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 善吉の様子に戯言らしいところはなく、眼には涙を一杯もッて、膝をつかんだ拳は顫えている。「善さん、本統なんですか」「私が意気地なしだから……」と、善吉はその上を言い得ないで、頬が顫えて、上唇もなお顫えていた。 冷遇ながら産を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・また宴席、酒酣なるときなどにも、上士が拳を打ち歌舞するは極て稀なれども、下士は各隠し芸なるものを奏して興を助る者多し。これを概するに、上士の風は正雅にして迂闊、下士の風は俚賤にして活溌なる者というべし。その風俗を異にするの証は、言語のなまり・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫