・・・呼込みの男が医学と衛生に関する講演をやって好加減入場者が集まる頃合を見計い表の幕を下す。入場料はたしか五拾円であった。これも、わたくしは入って見てもいいと思いながら講演が長たらしいのに閉口して、這入らずにしまった。エロス祭と女の首の見世物と・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・ 私は、ほつれた行李の柳を引き千切って、運河へ放り込みながら、そう云った。「おい! そんな自棄を云うもんじゃないよ。それよりも、おとなしく『合意雇止め』にしてやるから、ボーレンで一ヵ月も休んで、傷を癒してから後の事は、又俺でも世話を・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ この時まで枯木のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気のある布団の上に泣き倒れた。 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込みたるものなり。 大略これを区別すれば、第一に一身を大切にして健康を保つこと。第二に活計の道、渡世の法を求めて衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・と言いながらまっさきにどぶんと淵へとび込みました。 みんなもなんだか、その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら、一人ずつ木からはねおりて、河原に泳ぎついて、魚を手ぬぐいにつつんだり、手にもったりして家に帰りまし・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 楢夫は、入口から、急いで這い込みました。 栗の木なんて、まるで煙突のようなものでした。十間置き位に、小さな電燈がついて、小さな小さなはしご段がまわりの壁にそって、どこまでも上の方に、のぼって行くのでした。「さあさあ、こちらへお・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・となりに、百代が萌黄立枠の和服で深く椅子の中に靠れ込み、忠一と低い声であきず何か話していた。忠一は、百代の背中に手をまわすようにして、同じ椅子の肱に横がけしているのだ。その真正面に、もう一冊の活動写真雑誌をひろげて篤介が制服でいた。午後二時・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」 権右衛門が一同を呼び入れた。重手で自宅へ舁いて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いば・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・或るものはその日の祈りをするために跪き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫