・・・老博士も、やはり世に容れられず、奇人よ、変人よ、と近所のひとたちに言われて、ときどきは、流石に侘びしく、今夜もひとり、ステッキ持って新宿へ散歩に出ました。夏のころの、これは、お話でございます。新宿は、たいへんな人出でございます。博士は、よれ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・珍しく鷹揚な猫で、ある日犬に追われて近所の家の塀と塀との間に遁げ込んだまま、一日そこにしゃがんでいたのを、やっと捜し出して連れて来たこともあった。スマラグド色の眼と石竹色の唇をもつこの雄猫の風貌にはどこかエキゾチックな趣がある。 死んだ・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・ そしてお絹がそういう女の例を二つ三つ挙げると、最近客と京都へ行っていて、にわかに気の狂った近所の女の噂で、またひとしきり持ちきった。 道太は何をするともなしに、うかうかと日を送っていたが、お絹とおひろの性格の相違や、時代の懸隔や、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。 私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃくを売って、わずかの儲けでも、私の家のくらしのたすけにはなったからである。お父さんもお母さんもはたらき者・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・毎朝近所から通って来る車夫喜助の声もする。私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手して後向きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔い其の袖にしがみつきながら・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にあ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・遠国より来る人は、近所へ旅宿すべし。ずいぶん手軽に滞留すべき宿もあるべし。一、社中に入らんとする者は、芝新銭座、慶応義塾へ来り、当番の塾長に謀るべし。一、義塾読書の順序は大略左の如し。社中に入り、先ず西洋のいろはを覚え、理学・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す、子供の時には軽薄な江戸ッ児風に染まって、近所の女のあとなんか追廻したが、中年になって真面目になったその私が再び女に手を出す――全く獣的生活に落ちて、終には盗賊だって関わないとまで思った。いや、真実なん・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫