・・・ 無論、全部おれが身銭を切ってしてやったことで、なるほどあとでの返しはそれ相当に受け取りはしたが、当時はなにもそれを当てにしていたわけではない。簡単にいえば親切ずく、――あとで儲けを山分けなどというけちな根性からではさらになかった。・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そこで彼はまったく私に絶望して、愛想を尽かしてしまったのだ、そして「君のような心がけの人は、きっと今に世の中から手ひどいしっぺ返しを喰うぞ」と、言った。しっぺ返しとは、どんなことを意味するであろうか? まさか私を、会の案内状から削除するとい・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それは一方が村の人の共同湯に、一方がこの温泉の旅館の客がはいりに来る客湯になっていたためで、村の人達の湯が広く何十人もはいれるのに反して、客湯はごく狭くそのかわり白いタイルが張ってあったりした。村の人達の湯にはまた溪ぎわへ出る拱門型に刳った・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸に繰り返しつつ浴場へと行きぬ。あとより来るは布袋殿なり。上手に一つ新しく設らえたる浴室の、右と左の開き扉を引き開けて、二人はひとしく中に入りぬ。心も置かず話しかくる辰弥の声は直ちに聞えたり。 ほど・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・全然とり返しがつかぬという考え方はこれは天国的なものでなく、悪魔の考え方である。 しかし童貞を尊び、志向を純潔にし、その精神に夢と憧憬とを富ましめるということは、青年の恋愛にとって欠くべからざる心がけである。 五 相互選・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そして、こういうことは、自分の意志に反して、何者かに促されてやっているのだ。――ひそかに、そう感じたものだ。 嗄れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・と問い返したが返辞が無かったので、すぐとまた、「じゃあ誰の世話にもならないでというんだネ。」と質すと、源三は術無そうに、かつは憐愍と宥恕とを乞うような面をして微に点頭た。源三の腹の中は秘しきれなくなって、ここに至ってその継子根性・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・暗いほど茂った藤棚の下で、彼女は伜から話されたことを噛み反して見た。「まだお母さんはそんな夢を見てるんですか」 それはお三輪が念を押した時に、伜の言った言葉だ。彼女には、それほど世が移り変ったとは思われなかった。 蓮池はすぐ眼に・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 返した花を藤さんは指先でくるくる廻している。「本当にもう春のようですね、こちらの気候は」「暖いところですのね」 自分はもくもくと日のさした障子を見つめて、陽炎のような心持になる。「私ただ今お邪魔じゃございませんか」・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫