・・・それは今にして思返すと全く遠い昔の事である。明治の末、わたくしが西洋から帰って来た頃には梅花は既に世人の興を牽くべき力がなかった。向嶋の百花園などへ行っても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉さ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似がしたくなるからやめた。 一 夢 百、二百、簇がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と、吉里は詫びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。 西宮はうつむいて眼を閉ッて、じッと考えている。 吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかれども打者の打撃球に触れざる時は打者は依然として立ち、攫者は後にありてその球を止めこれを投者に投げ返す。投者は幾度となく本基に向って投ずべし。かくのごとくして一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球棒と触れざる者攫者よくこれを攫し得・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・そして中くらいの鮒を二匹、「魚返すよ。」といって河原へ投げるように置きました。すると庄助が、「なんだこの童あ、きたいなやづだな。」と言いながらじろじろ三郎を見ました。 三郎はだまってこっちへ帰ってきました。 庄助は変な顔をし・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・そうかと思えば、猛烈にその借金を返すことに努力し、自分たちの生活破壊から自分たちをまもるために協力が発揮されることもある。協力は笑う、協力は最も清潔に憤ることも知っている。協力は愛のひとつの作業だから、結局のところ相手が自分に協力してくれる・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・拾いし者は速やかに返すべし――町役場に持参するとも、直ちにイモーヴィルのフォルチュネ、ウールフレークに渡すとも勝手なり。ご褒美として二十フランの事。』 人々は卓にかえった。太鼓の鈍い響きと令丁のかすかな声とが遠くでするのを人々は今一度聞・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。 酒を注いで遣る女がある。 男と同年位であろう。黒繻子の半衿の掛かった、縞の綿入に、余所行の前掛をしている。 女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・このため、彼は彼女の肉体からの圧迫を押しつけ返すためにさえも、なお自身の版図をますますヨーロッパに拡げねばならなかった。何ぜなら、コルシカの平民ナポレオンが、オーストリアの皇女ハプスブルグのかくも若く美しき娘を持ち得たことは、彼がヨーロッパ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと、驚いたことには、もう二ひら三ひら花弁が開いている。やがてはらはらと、解けるように花が開いてしまう。この時には何の音もしない。最初二ひら三ひら開いたときには、つ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫