・・・そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。 筧は雨がしばらく降らないと水が涸れてしまう。また私の耳も日によってはまるっきり無感覚のことがあった。そして花の盛りが過ぎてゆくのと・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・部屋へと二人は別れ際に、どうぞチトお遊びにおいで下され。退屈で困りまする。と布袋殿は言葉を残しぬ。ぜひ私の方へも、と辰弥も挨拶に後れず軽く腰を屈めつ。 かくして辰弥は布袋の名の三好善平なることを知りぬ。娘は末の子の光代とて、秘蔵のものな・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 真蔵は銘仙の褞袍の上へ兵古帯を巻きつけたまま日射の可い自分の書斎に寝転んで新聞を読んでいたがお午時前になると退屈になり、書斎を出て縁辺をぶらぶら歩いていると「兄様」と障子越しにお清が声をかけた。「何です」「おホホホホ『何で・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・にもそのマンネリズムと、安易さと退屈とはあろう。しかしそれは熱烈なる「愛人教育」によって打破し、指導し得られぬことはない。だがひとたび不幸にしてその女性としての、本質を汚した女性、媚を売る習慣の中に生きた女性を、まだ二十五歳以下の青年学生の・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・田舎の生活も決して単調ではない。退屈するようなことはない。私の村には、労働者約五百人から、三十人ぐらいのごく小さいのにいたるまで大小二十余の醤油工場がある。三反か四反歩の、島特有の段々畠を耕作している農民もたくさんある。養鶏をしている者、養・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈する。そこで鱗なら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返す頃になって、殿にご休息をなさるよう申す。殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りお・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・これなら特等室だ、蒸しッ返えしの二十九日も退屈なく過ごせると思った。然し皆はそのために「特等室」と云っているのではなかった。始め、俺にはワケが分らなかった。 ところが、二日目かに、モサで入っていた目付のこわい男が、ニヤ/\してながら自分・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と言って貰いたかったが、退屈した子供をどうすることも出来なかった。三吉は独りでも家の方へ帰れると言って、次の駅まで二里ばかりは汽車にも乗らずに歩いて行こうとした。この田舎育ちの子供が独りでぽつぽつ帰って行く日にはおげんはお新と二人で村はずれ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ときどき皆、一様におそろしく退屈することがあるので、これには閉口である。きょうは、曇天、日曜である。セルの季節で、この陰鬱の梅雨が過ぎると、夏がやって来るのである。みんな客間に集って、母は、林檎の果汁をこしらえて、五人の子供に飲ませている。・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・貴族仲間の禁物は退屈と云うものであるに、ポルジイはこの女と一しょにいて、その退屈を感じたことが、かつてない。ドリスはフランス語を旨く話す。立居振舞は立派な上流の婦人であって、その底には人を馬鹿にした、大胆な行を隠している。ピアノを上手に弾い・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫